Dear Friend

 目の前の壁を彼は睨んでいた。
 思っていたよりその壁は高く、そして堅牢だった。小さな古い城だと聞いていたから、きっとどこかしらに隙間や崩れた箇所があって、そうしたところから入り込めると思っていたがそれは甘い考えだったらしい。ないわけではないが、勿論そんなところには抜かりなく兵士が配備されているのだった。
 警邏する兵士には見えないように注意しながら城壁をしばらく睨んでいたが、やがて諦めた。近くの草むらに分け入り、古びた切り株に手にしていた荷物を置くと、彼は腕を組んだ。
 そうして、しばし考え込む。
 ──出直したほうがいいかな? でもなあ……。
 当然のように浮かんだ考えは現実的なものではなかった。
 仲間に頼み込んで得た休暇は今日一日だけ。明日にはまた別の場所に移動し、必要に応じては戦うこともあるだろう。それは今の自分達には重要なことだと思うし、思っているからこそ「休暇」はこれ以上は伸ばせない。
 そして。
 ──そもそも、今日じゃなきゃ意味ないし。
 荷物を見やり、その中にあるものを思って彼は溜息をついた。

 吹く風が冷たくなってきたことに、気付いた。
 見上げた雲が低くなってきたことに、気付いた。

 思い出した。
 あの光景だけじゃないと、思い出した。


 行軍の途中、なんとはなしに空を見上げたのだった。
 つい先頃まではよく晴れ渡って僅かに巻雲が浮かぶくらいだった秋の空が、いつの間にかその表情を変えていた。灰色の雲がその大半を覆い、その合間から少しだけ覗く空の色はごく淡い。風に乗って雲はどんどん流れ、空の形も合わせて変わっていく。
 雲が空を埋め尽くすそのさまに雨を連想したが、ざらりと頬を撫でていった風がそれを否定した。涼しさを通り越し、冷たいと感じる風には少しばかり重みがあった。
 雪の匂い。冬がまたやって来る、その証左。
 冬がもたらす寒さと暗さには誰しもが少なからず鬱々とした思いになる。それは彼も同じだったが、冬といって思い出すものは寒さでも暗さでもなく、雪だった。
 冬の日、砦に降り積もった雪。
 雪の日は他にも色々あったはずなのに、真っ先に思い出すのはあの白い光景だ。
 囚われている、と思う。思い出したくない、とも思う。この苦い思いから逃れたい、とも。
 だが。
 灰色の雲が何かを生み出さないかと見上げたまま、重く冷たい風を吸う。見据えるように目を凝らし、その時を待つ。
 雪が降るのを、待つ。心の内の痛みは無視せず、変えられない過去からは目を逸らさず、今は雪を待つ。
 そう決めていた。
 自分が生み出した現実から、あの雪から、すべてから。……もう逃げ出さないと決めたのだ。何ができるわけでもない、変えられるわけでもない、それでも。
 何かのためではない、ただ自分のために、逃げないと決めた。
「寒いなー……。雪降るな、こりゃ」
「今は大丈夫だが、夜半にはちらつくだろう。……冬だな」
 聞こえてきた仲間の会話に目を細めると、彼は視線を転じた。
「そんなに寒い? ムスタディオ」
 かたかたと震えながら友人が腕を擦る。その姿は少し大袈裟なようにも見えたから、彼は小さく笑った。
「寒いもんは寒いんだよ。ラムザ、お前は違うのか?」
「まあ、寒いけどね?」
 返ってきたムスタディオの言葉に素っ気なく頷き、ラムザは隣を見た。仕方がないな、と呆れ顔でやり取りを見ていたアグリアスと目が合う。
「先を急ごう。雪が降る前に街へ入った方が良い」
「そうだね。このままじゃムスタディオが風邪引きそうだし」
 俺だけが風邪引くのかよ……と恨めしそうに呟いた友人には取り合わず、ラムザはもう一度空を見上げた。空に青はもはやなく、灰色がそのすべてだ。
 風に混じるのは雪の匂い。
 低い雲が告げるのは冬の始まり。
 ──本当に陽も低くなってきたね。もう冬だなって気付くと思い出すんだよ。
 短くなった昼。長くなった夜。
 ──普段は忘れてるのか?
 冷たくなった水。暖炉に入れられた火。
 ──ん? そうかも。
 秋が終わり、冬が始まる。
 ──……ひどい奴だな。
 うつろう季節の、その狭間にあった会話。
「あ」
 心をよぎったかすかな記憶に、ラムザは声を上げた。どうした、と見てくる仲間達の視線には応じず、空を見上げたままよぎった記憶の糸を辿る。風を感じながら、思い出す。
 秋の終わり。冬の始まり。うつろう季節の狭間。……時代と時代の狭間。
 ──おめでとう。
 そんな頃に、満面の笑みで告げた言葉があったことを。
 ──……ありがとう。
 そんな頃に、はにかんだ笑みで返された言葉があったことを。
 そんな時間が確かにあった。
 秋と冬の狭間に生まれた幼馴染を祝った時間があった。
「忘れてた」
「何を?」
 問いに振り返ると、呟きを聞き取ったらしいムスタディオが首を傾げていた。他の仲間達も同様に不思議そうな顔をしている。
「もうすぐ誕生日なんだよ、忘れてた」
 そんな彼らにラムザは口早に告げた。そうして、誰の?と続いた声を聞き流して歩き始める。
 思い出してしまえば、心は急速に傾いた。

 そんなわけでここにいる。
 ──さて、どうしよう。
 結構な間忘れていた誕生日を祝おうと思ってここまでやって来たが、城に忍び込むのはどうにも無理そうだった。商人か何かに化けてみるのはどうだろうと考えてはみたが、城門を潜る者にそんな輩は見当たらなかった。荷車も通らず、行き交うのは屈強な兵士達ばかりだ。
 正面突破、という考えもよぎる。しかし、そんなことをすれば大騒ぎになるに違いない。そう簡単にやられはしないという自信はそれなりにあるが、もしもという場合もある。それに、できるだけ穏便に事を運びたい。仲間にも祝う相手にも危険なり迷惑なりがかかるのは本意ではない。
 とはいえ、このままでは埒が明かないのも事実なのだった。
 ──さて、どうしようかな。
 考えながら見やった革鞄は不格好に歪んでいた。少し大きなものを無理やり詰めたために歪んだ鞄に手を伸ばすと、ラムザはそれを今一度開けた。
 たぷん、と液体が揺れる音がする。慎重に鞄から出してぐるぐると巻き付けていた布を取ると、中から現れたのは一本の瓶だった。
「大丈夫なようだね」
 どこか割れていないか検分し、ラムザは呟いた。幸いにも瓶は割れていないし、布にも鞄にも中身がこぼれた形跡はない。
 ほっとした思いで瓶に貼られたラベルを見る。星並びと人馬宮の符号が大きく描かれたその上に「グルナッシュ・サジテール」と銘が刻まれているそれは、星まわりのワインだ。
 誕生日祝いの品を何にしようかと悩んだ末に選んだのがこれだった。
 初めはひとりであれやこれやと考えていたのだが、どれもぴんと来なかった。それで、誰に贈るかはぼかして仲間達にも相談したわけだが、大半の仲間が助言をくれた一方で、一部の仲間は溜息混じりの呆れ顔だった。
 祝う相手が誰なのか、助言をくれた仲間も呆れ顔の仲間も気付いているのだと思う。そのうえで特段止めもせずに見守ってくれている。ありがたいなと心の内で感謝しつつ、遠慮なくそれに甘えることにした。
 そうして、結局皆を巻き込んで考えた。
 記念なのだから特別なものが良いか。それとも、普段遣いできるものが良いか。形として残るものが良いか。エトセトラエトセトラ。ざっくりとしたものから具体的にこれはどうかというものまで、実に様々な意見をもらったのだが。
「こんなところで何やってるの?」
「わ!」
 唐突にかけられた声に、ラムザは慌てて顔を上げた。草むらを挟んで城壁側にひとりの女が佇み、こちらを見つめている。
 見つかってしまったかと思い、背筋にさっと冷たいものが駆け抜けた。剣を手にするべきか、逃げるべきか。その両方か。思わず取り落としそうになった瓶をどうにか持ち直し、女からは目を逸らさずにまず一歩下がる。
 そんなラムザを見て、女は口の端を上げた。
「別に取って食いやしないわよ、異端者さん。私のことは忘れたかしら?」
「え?」
 皮肉な笑みと共に投げられた言葉に、ラムザは目の前の女を見つめた。切れ長の目に、高く結った髪。その風貌にはそういえば見覚えがある。
「……ええと、ディリータの補佐をしてる人だね? 名前は……バルマウフラ?」
 ゼルテニアでの記憶を辿って言うと、正解、とバルマウフラは答えた。
「補佐じゃなくて監視役だけどね。まあ、それはいいわ。で、何してたの? 随分と大胆な行動のようにも思えるけど」
「大胆、になるかな?」
「相当ね」
 バルマウフラに敵意がないことを察し、ラムザは警戒を解いた。そうして、興味津々といった面持ちで訊ねる彼女にワインの瓶を見せる。
「これを持ってきたんだ」
「ワイン?」
「そう」
 ラムザは頷いた。
「ディリータにと思って持ってきたんだけれど、どうにも入り込むのは難しそうだなって悩んでたところだよ。ディリータはこの城にいるんだろう?」
「いるわよ。今頃は地図と格闘してるんじゃないかしら」
 ラベルに視線を落としているバルマウフラに問いを付け加えてみると、彼女はその問いを肯定した。
 自分が持っていた情報が正しかったことにラムザはひとまず安堵した。小競り合いを収める任に「成り上がりの若造」がついたという情報は、数日前に近くの酒場で手に入れたものだ。
「ひとりかな?」
「多分ね。軍議は昼前に終わったから、何もなければそうでしょう。誰も寄り付きたがらないし」
「なるほど……」
 確かに、とラムザは思った。再会した時から思っていたが、今のディリータにはそんな雰囲気がある。腹の底では何を企んでいるのかよく分からない、気がつけば「取って食われる」のではないか……。ごく一部の(あるいは唯一の?)例外を除いた大多数に見せているその姿は、知ってもなお傍にいたいと思わせるものではないのかもしれない。
「そう。だから、入り込んでしまえば今なら簡単に会えるんじゃないかしら。なんなら手を貸しましょうか?」
 バルマウフラはこの状況を完全に面白がっている風情で言ったが、そんな彼女にラムザは思わず苦笑した。願ってもない申し出だが、ここは慎重になる必要があるだろう。話が少しうますぎる。
「ありがたいけど、気持ちだけもらっておくよ。何が起きるか分からないし、仲間も心配するからね」
「あら、残念。じゃあ、これはどうするの?」
 素直に引き下がったバルマウフラは、ラムザが手にしている瓶を指さした。
「ああ、そうだった。……どうしよう?」
「私に訊かれても困るわよ。そもそも、どうしてワインなんか持ってきたの? 毒殺するつもりだったとか?」
 バルマウフラの物騒な推測にラムザはますます苦笑した。
「まさか。幸運にも忍び込むことができたとしたら、一緒にこれを飲むことになる。そうしたら僕もあの世行きになるよ」
 そんなことは勿論考えてもいない。
「ディリータにだけ飲ませて、僕はわざと飲まない……。まあ、そんなこともできるとは思うけど見当違いだよ。大体、これに毒なんて入れてない。それは保証する」
 封も切られていない酒瓶に後から毒を仕込むのは至難の業だ、と瓶の封を強調してラムザが見せると、バルマウフラは肩を竦めた。
「そうね。酒に毒を盛る、なんていうのは常套手段でしょうけど少し古臭いわ。それに、いいワインに毒なんて無粋よ」
「これ、いいものなんだ? もしかして結構詳しいとか?」
 バルマウフラの言葉尻を捉えて、にわかにラムザは身を乗り出した。実のところ酒の味には疎いので、他者から太鼓判を押してもらえるのは心強い。
「詳しいかどうかは自分では決めかねるけど、それなりにお酒は好きね。……味も分からないで決めたの?」
「……。……そういうことになるね」
「まあ」
「でも、この手に詳しい人に選んでもらったから美味しいんじゃないかな。当てずっぽうじゃないよ」
 心底呆れたと言わんばかりのバルマウフラの視線が痛くて、ラムザは弁明した。
 様々な助言を得て悩んだ末にワインに決めたが、酒場の貯蔵庫にずらりと置かれた酒瓶の多さに気が遠くなったのは事実だ。主から説明を縷々と受けながら何種類か試飲もさせてもらったが、なんとなく違いは分かるものの結局どれが良いかというのは自分では決めかねた。他の仲間達も普段飲むのはエールやサイダーといった類で、ワインにはやはり造詣が深くない。
 これは困った、何か別のものにするべきかと考えを巡らせ始めたとき、ふと目が合ったのはこちらも誕生日を迎えたばかりの老伯だった。
「誕生日を祝うなら星まわりのものがいいんじゃないかって」
 共に行動するようになった経緯を思えば、後釜に座った男の誕生日なぞというのが普通の考えだろう。だが、伯は違った。ぼかした事情をおそらくは察したうえでそれを問い詰めることもなかった。厳めしくも穏やかな面持ちでそう提案すると、数本あった星まわりのワインの中から一本を選んだ。
 さすがに少し戸惑いつつ差し出されたそれを受け取ると、こちらの心境を知ってか知らずか伯は微笑んだのだった。
「誕生日? ああ、それでなのね」
「そう。ディリータの誕生日に合わせて来たんだけど、これじゃあね。別の機会っていうわけにもいかないし……あ、そうだ」
 殆どぼやきになりつつある説明を途中で止め、ラムザは改めてバルマウフラを見た。そうして、手にしたままだった酒瓶を差し出す。
「一緒に飲んでくれないかな、これ。ディリータと」
「……そう来るんじゃないかと思ったわ」
 渋い表情でバルマウフラは言ったが、それでも差し出した瓶を受け取った。
「こう見えても別に暇ってわけじゃないのよ?」
「そうかもしれないけれど、ほら、そこはディリータが飲みすぎないように監視するとかなんとか理由をつけて」
 バルマウフラが先刻言った「監視役」という言葉を混ぜて返すと、彼女は表情を少し緩めた。
「都合のいい解釈をする人ね。いいわよ、監視してあげる」
「よかった、ありがとう」
 片目を瞑って寄越した彼女に、ラムザはほっとした思いで笑んだ。ひとりで祝いの酒を飲むという構図は、やはりあまりにも寂しすぎる。
 彼女が実際どれほどディリータと親しいのかは分からないが、ゼルテニアでのやり取りを思い返すと別段毛嫌いしているわけではないだろう。それは、彼女を信用していると言っていたディリータの方も然りだ。
 そう思うと、彼女が自分を見つけてくれたのは僥倖だった。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。日が暮れる前には戻るって約束してるんだ」
 昼下がりというのに既に陰り始めた陽を見、ラムザは言った。冬の初めの陽射しはやはり弱い。
「まるで子供みたいね」
「まあね。もう家族みたいなところもあるから」
 揶揄を含んだバルマウフラの言葉に、ラムザは再び苦笑した。
 祝いの品を渡すために単独で行動したいと無理を承知で仲間達に言ってみたら、彼らは驚きもしなかった。ああ、そう。行ってらっしゃい。くれぐれも迷惑をかけないように。よろしくお伝えください。転んで怪我するんじゃないぞ。そんな科白ばかりが返ってきた。
 やっぱり予想してたのかな、と言うと、ムスタディオは「そりゃそうだろ」という答を投げて寄越した。アグリアスからは「とうに予定に組み込んである」と件の生真面目な顔で言われ、他の面子もなんでもないことのように頷いていた。誰も止めなかった。
 構えていた自分には彼らの反応は拍子抜けで、かえって不安になったほどだった。そんなだから、肩透かしで得た休日の始まりに「日が暮れる前に」なんて約束を自分から取り付けたのだが。
 いいから早く行ってこい。朝早くに見送ってくれた仲間達は笑って手を振った。
「それで言うと、やっぱり僕は末っ子扱いかな。あんまり皆に甘えてちゃいけないんだけど」
「いいんじゃない? 甘えられる……頼れる仲間がいるっていうのは強みにもなるし、反対に頼られてるって思うこともあるんでしょう? 誰も寄り付きたがらない誰かさんよりはよっぽどましよ」
「……うーん、それは」
 ディリータに対するバルマウフラの評価は手厳しかった。どう返していいものかラムザが言葉を濁していると、彼女はふっと笑って城を見やった。
「そんな誰かさんにも訪れてくれる友達……友達って言うのかしら。まあ、物好きさんがいるって分かったのはいい収穫ね。ああ、そうそう」
 言いながらバルマウフラは隠しに手を突っ込み、木炭の欠片を取り出した。
「何?」
「せっかくだから何か一筆書いていきなさいな」
 祝いの言葉でも呪いの言葉でも。
 そんな科白と共に差し出された木炭片と酒瓶を受け取り、ラムザは笑って頷いた。
「じゃあ、祝いの言葉を」



 離れてから何故かずっと忘れていた時間だった。
 封じたわけでもないのに消えようとしていた時間だった。
 秋の終わり。冬の始まり。うつろう季節の狭間。……時代と時代の狭間。
 そんな時間は確かにあった。
 あの白い光景の他にも、冬の記憶が。
 
 それは、戻らない日々を懐かしんでいるだけなのかもしれない。
 それは、見えぬ未来から目を背けているだけなのかもしれない。
 だけど、それでも。

 巡る一年に幸いを。そこから先の日々にも幸いを。

 そんな祈りをこめて、昔のように。
 短い言葉を綴った。

あとがき

2004年のディリータ誕生日記念話「GRENACHE SAGITTARIUS」の直前の話です。今回はラムザ視点の話となりましたが、バルマウフラとの絡みを書くのは面白かったです。しかしながら、私が書くとバルマウフラさんがやっぱり一番強くなってしまうような…。
ところで、ラムザの部隊における「お酒に強い」人物は他にはベイオウーフ&レーゼあたりがなんだか該当するのではと思っています。レーゼさんは強いというより利き酒ができそうな気も。メリアドールもワインには造詣が深いかもしれませんね。

2018.11.25