Pie And Wine And You And I

 インクの乾き具合を確認すると、先刻まで書き付けていた手帳をオーランは閉じた。
 自分にしか分からないように単語も書体も崩して書いたそれは、仮に他者に読まれたとしても首を傾げて終わるだけのものだった。読み解き、さらに理解し得る者が現れたとしたら、その人物は間違いなく「裏」を知る者だろう。
 書き付けたのは、「真実」の片鱗だ。この国に住まう殆どの者が知らない、知り得ようもない、ついこの前まで自分も知らなかった、そして知りたいと思った、隠れた「真実」のその欠片。事実。それは、放っておけば間もなく闇に捨てられる。疑いようもなく。
 見過ごすことはできなかった。もはや知らないふりはできなかった。
 椅子から立ち上がり、外を窺う。バルマウフラはまだ帰ってこない。
 多くの事実を証明するような情報を自分にもたらしてくれた彼女には、今、とある用事を頼んでいた。たいして時間も取らずに戻ってくるだろうと思っていたが、何か面倒事にでも巻き込まれてしまったのだろうか。あるいは、そのまま自分の元を去ったか。
 前者はないな、とオーランは思った。聡明な彼女のこと、面倒事に出くわしたとしても鮮やかに切り抜けるはずだ。
 後者はどうだろう。戦も終わった今、彼女を縛り付けるものはもう何もない。教会からも、あの男からも離れた彼女はもう自由だった。同行を依頼した自分も彼女の話はもう大方聞かせてもらったから、引き止める理由はもうない。……少し、いや、かなり残念だが、仕方がないことだ。
 ただ、と思う。彼女は黙って消えはしない。去るとしても、何かしらの言葉を自分に残してから消えるだろう。そこに確たる根拠はないが、短い時間を共に過ごしてみて分かったことのひとつだった。
 と、そのとき、扉を叩く軽い音が聞こえた。始めに二回、少し間を空けて三回。そしてまた一回。特徴のある打音にオーランは一人頷くと、扉を開けた。
 姿を見せたのは、予想通りバルマウフラだった。オーランが身を引くのと同時に、猫のようにするりと部屋に入る。手にしていた紙袋と封筒を卓の上に置くと、彼女は振り向いた。
「いい天気よ。じめじめした部屋に閉じこもっているのが勿体無いくらい」
「そのようだね。気分転換になったかい?」
 ほんの少しだけ扉を開けておき、オーランは部屋に戻った。どうかしらね、と返す彼女に言葉を足す。
「散歩でもして来たのかと思ったよ」
「やたら遅かったのはそのせいかって? だったら逃げないように見張りを付けておくか、自分が同行すべきだったわね。大体、この用事だって私に頼む必要なんてなかったでしょうに」
 少し棘のある口調で返ってきたのは正論だった。怪我はすっかり治っているし、酒場に貼られる手配書の中に自分の名前はもうないらしい。それを思えば、彼女に用事を頼む必要はなく、自分で済ませてしまえば良いだけのことだった。それをしなかったのは単に彼女に甘えたからに他ならない。
 全く彼女の言うとおりだな、と内心で苦笑しながらもオーランは曖昧に頷いてバルマウフラの言葉を受け流した。椅子を引き、着座を勧める。
 一瞬だけ視線を投げてよこし、彼女はその椅子に収まった。
「ありがとう、おかげで助かったよ。……ところで何かいい匂いがするね?」
 オーランは卓の上に置かれた紙袋を見た。食欲をそそる香ばしい匂いがする。
「ああ、これ。もうじきお昼だと思って、ついでに買ってきたのよ。ミートパイとおまけのチェリーパイ。どちらも出来たてだそうよ」
「それは嬉しいな。ずいぶん豪華なおまけだが」
「試作だから後で感想をよこせってことらしいけど、まあ太っ腹よね」
 バルマウフラの言葉にオーランは頷いた。未だ食糧不足が続くこのご時世にあって、確かに珍しいほどの太っ腹だ。
「せっかくだ、ありがたくいただくとしよう」
「賛成。もう腹ぺこ」
 椅子から立ち上がりかけた彼女を制し、オーランは据え付けの棚から皿と酒器を出した。さらに、何本か持ち込んでいた葡萄酒の中から一本を選び、卓に置く。
「軽めの赤だが、いいかい?」
「ちょうどいいわ。美味しいといいんだけど」
 この前飲んだ酒は酷かった、とバルマウフラは顔をしかめた。


 結論から言って、葡萄酒はまあまあ美味しかった。ミートパイとチェリーパイはとびきり美味で、たちまち二人の胃袋に消えた。
「本当に君は酔わないね」
 使った食器をざっと片付けながら、オーランは卓を拭くバルマウフラに声をかけた。
 ひとつの卓を囲んで酒を酌み交わすことも成り行きのままに多くなったが、彼女が酒に酔った姿を見たことがない。相当に強いのだと思う。
「あなたもね、オーラン。ディリータなんてまるで強くなかったわ」
「そうなのかい?」
 問い返してみると、そう、とバルマウフラは頷いた。重ねた食器の横に台拭きを置き、再び椅子に座る。
「何度か一緒に飲んだけど、まったく話にならないのよ。本人は嗜む程度が一番だなんて言って、それは否定しないわ。でも、それ以前の問題」
 平然と飲み続けるバルマウフラと、早々に沈むディリータ。その光景は目に浮かぶようで、オーランは思わず笑った。
「まあ、飲む飲まないは本人の自由だからね。飲まない……、いや、飲めないのを自覚しているだけいいんじゃないか?」
「分かってるわよ。残ったお酒は美味しくいただいたから、良かったくらいだわ」
 バルマウフラは常のすまし顔で言った。
 そうか、とオーランは相槌を打った。そうして、汚さないようにと卓の端に寄せていた封筒を手に取ると、席に戻る。
 封を切り、入っていた十数枚ほどの紙を取り出す。思ったより多く入れてきたな、とそれらの書類を眺めていると、向かいに座った彼女が訊ねてきた。
「何なの、それ?」
 あまり興味もないような口調で問われ、オーランは書類から彼女へ視線を移した。
「機密事項っていうなら、席を外すけど」
「その必要はないよ。そもそも、それなら初めから君に頼んだりはしない」
 たいしたものじゃないさ、と前置きをしてから数枚の書類を彼女に渡すと、オーランは書類に目を落とした。
 書かれてあるのは、地名と図面。それに続く覚え書き。覚え書きは書類によって数行のものもあれば、端までびっしり書き込まれてあるものもあり、まちまちだった。きっと複数の調査員がいたのだろう、とそれらの書類を見ながらオーランは思った。
「何、これ?」
 バルマウフラが再び訊ねる。
「どう見ても家の間取りよね?」
「そのとおり。家を探そうと思ってね」
 書類に目を通しながらオーランは答えた。
「落ち着いてきたら、と考えていたんだ。隠れ住む必要もなくなってきたし、頃合いだろう」
 ゼルテニアから逃れた直後には縁者を頼るのも躊躇われたが、今はそうでもなかった。実際、仮住まいとしているこの宿にしても、遠縁の伝手を頼っている。宿の主人はありがたいことに何かと気遣ってくれるが、こちらの行動に深入りすることはない。宿自体もそこそこ快適で、不自由するところはなかった。
 とはいえ、落ち着かないのも事実だった。そして、これからのことを思えば、ひとつところに留まりたいと思った。
 これから、を思えば。
「なるほどね。まあ……、逃げる必要はもうなさそうよね」
「そういうこと」
 最後の一枚を読み終え、オーランは書類を卓に戻した。それをバルマウフラが手に取り、反対に持っていた書類をオーランに手渡す。
「また誰かの伝手?」
「そうなるかな。遠縁の知り合いの知り合いだ」
「他人よ、それは」
 言い切るバルマウフラにオーランは笑んだ。
 彼女の言うとおりだが、実はその方が都合が良いのだった。「これから自分が成し得たいと思っていること」を完遂させるには、縁はむしろ遠い方が良い。たぶん、その方が互いのためだ。
 これから、を思えば。
 書類と同じように端に寄せていた手帳を取る。ぱらり、と開き、また閉じた。
 その中にある「真実」の欠片が自分を捉えて放さない。ほうぼうから集めた事実。この目で見た事実。彼女から聞いた事実。そして、未だ知らない数多の事実。闇に捨てられそうな、忘れ去られそうな、過去が。今が。
 それらから成り立つだろう「真実」の存在が、自分を。
 見過ごすことはできなかった。もはや知らないふりはできなかった。
 ──何より、知りたいと思った。願い始めた。
「何を企んでるか知らないけど、いいんじゃない?」
 バルマウフラの素っ気ない賛同の声に、オーランは思考を浮上させた。
「元々、旅暮らしが似合ってるふうでもないし。どちらかというと、ちゃんとしたお屋敷で本に埋もれてる方がお似合いよ。……お屋敷にしては、どれも随分こじんまりしてる間取りだけど」
「屋敷なんか構えるつもりはないよ。本は増えるだろうから、書斎は広い方がいいが」
 後は自分ひとりが暮らせればそれで十分だ。とりあえずは。
 続けようとした言葉を呑み込み、オーランは書類を眺めているバルマウフラを見た。
 この先、彼女はどうするのだろうと再び思う。既に自由の身、これまでを取り返すように思いのままに生きることもできる。いや、彼女はそうするべきだ。それが彼女の幸せに繋がると思う。
 ……だが。
 彼女を離したくはないと願う、もうひとりの自分がいる。自分の「これから」を共に、と彼女に願う自分がいる。
 正直、オーランはその感情を持て余していた。男としての、人としての欲なのか、それとも別のものなのかは分からない。いい年をして、まったく情けないと思う。
 ただ、彼女には傍にいてほしいと思う自分がいる。見ていてほしいと願う、自分が。
 それは確かなことだった。
「どうしたの?」
 視線に気付いたのだろう、バルマウフラが書類から顔を上げた。
 何でもないさ、とオーランは彼女に言おうとして失敗した。浮かべていた笑みは消え去り、自分でも真顔になっているのが分かる。
「オーラン?」
「……見ていてくれないか」
 気が付けば、心に抱えていたものは言葉となって転がり落ちた。
「何を?」
「これからを」
 当然の問いを投げたバルマウフラにオーランは一瞬躊躇し、それから断片的に答えた。その答にバルマウフラが不服そうに眉根を寄せる。
「どういうこと? それだけじゃ何も分からないわ」
「そうだな、確かにこれだけじゃ何も伝わらない。けれど、言葉どおりの意味さ。僕の『これから』を見ていてほしい」
 一旦、言葉を切る。見据えてくる彼女から視線を外さないまま一度深呼吸をすると、オーランは再び口を開いた。
「これから僕は過去に目を向ける。何故、戦は起きたのか。目に見えていた争いの構図の裏にあったものは何か。この国を真に脅かしていたものは何か。それを退けた者は誰か。このままでは何も残らない、隠されたまま葬られるだろう真実とは何か。それらを僕は探りたいし、知りたい」
 闇に捨てられそうな、忘れ去られそうな、過去を。今を。それらから成り立つだろう「真実」を。
「共に探ってほしいとは思っていない。ただ、傍で見ていてほしいと思う。途中で投げ出したりしないように。見て見ぬふりをしないように」
 手にしたままだった手帳の表紙をオーランは指の腹で撫でた。そうしてバルマウフラの返答を待つ。
 今の今まで、この危うい望みを他者に語ったことはなかった。これからもないだろう。唯一人、彼女だけだ。オーランは思う。
 返ってくる答がどうであれ、彼女には真意を明かしておきたかった。短い間だが歴史の裏を垣間見た同志として、伝えておきたかった。彼女が教会に通告し、それで再び追われることになったとしても。
「……ふうん」
 やがてバルマウフラは立ち上がると、オーランの横をすり抜けて戸口へと向かった。その様子に、オーランはやはり彼女は、と思った。
 ここを去るのか。
「君の答がそれなら、それで」
「いいわよ?」
 呟きを遮り、バルマウフラが軽い口調で答えた。僅かに開けていた扉を閉め、部屋へと再び戻る。思わず振り仰ぐと、彼女は悪戯を仕掛けるような顔で笑いながら椅子に座った。
「バルマウフラ?」
「いいわよ、って言ったのよ。口説き文句にしてはいまいちだけど」
 足を組んで言った彼女の言葉に、オーランは拍子抜けした。願いはしたが、予想はしていなかった答だった。
「随分あっさり……だね?」
「前にも言ったかもしれないけど、今の私にはするべきこともしたいこともないの。それに、そういうのに私はうってつけね」
 バルマウフラが笑みを深める。その意をうまく掴み取れず、訊き返そうとしたオーランに彼女は続けた。
「あなたに色々話した時点で、私の居場所はもうないの。いいえ、それよりも前……あなたのことも、ディリータのことも見逃した時に私はそれまでの私を失った」
「……」
 オーランは黙した。
「人はそれを自由になったと言うかもしれない。何でもできると言うかもしれない。私もそう思ったけど、そうやって生きてみても過去は捨てられないと思う。それよりは、あなたが探す「真実」を隣で見ているのも悪くない。たぶん、その方が性に合ってるしね」
「……そうか」
 目を細めてそう結んだバルマウフラに、オーランは頷いて瞑目した。
 彼女は自由になったと思っていた。何処へでも行ける、何でもできると思っていた。だが、それは自分も同じことだ。すべてから解き放たれたというわけではないが、それでも普通に生きることはできる。
 闇も過去も見なかったふりをして。
 すべてを知らないふりをして。
 ──だが、そんなことはできなかった。少なくとも、自分は。そして、実は彼女も。
 既に見てしまったのだから。
 既に知ってしまったのだから。
 もう、既に。
 ゆっくりと目を開け、彼女と視線を合わせる。そうしてしばらく神妙に見つめ合ったが、やがてどちらともなく吹き出した。
「決まりね。じゃあ、その書類を全部こちらに頂戴。何処に住むか、ぼんやりしてないでちゃんと決めないと。条件は書斎だけ?」
 手を伸ばしたバルマウフラにオーランは書類を渡した。そうだな、と顎を撫でる。
「あまり人目につかない方がいいかな。隠棲していると思われた方が都合がいい」
「これとこれ……これもそれだと除外ね。星は見えた方がいいのよね?」
 候補から落ちた書類を卓の端に寄せながら、バルマウフラが次の問いを繰り出す。
「ん? ああ」
 生返事をすると、彼女は小首を傾げた。
「占星術士ってそういうものじゃないの? 少しでも空が広いところでとか、長い時間でとか、暗い方がいいとか」
「街でもそんなに困らないし、そもそも本格的な観測をするわけじゃないからね。まあ、時々は星見ができれば嬉しいかな」
「じゃ、こっちの物件は全部駄目ね。後は?」
 バルマウフラの手元に残った書類は半分ほどになっていた。答を考えている間にも彼女の基準で品定めをしているらしく、一枚そしてまた一枚と卓の端の書類は増えていく。
 きっと自分だったら、とその様子にオーランは思った。それなりに考えた末に選ぶだろうが、こんなに真剣にはならなかったはずだ。現に、他の条件を問われてもすぐには思いつかない。
「後は……。特にないな。君が決めていいよ」
 思ったとおりにそう伝えると、バルマウフラは呆れた顔になった。
「結構いい加減ね?」
「そうでもないさ。書斎が広くて人目につきにくく星も見える。それで充分だ」
 少し嘯いて言ったオーランに、バルマウフラは肩を竦めた。そうしてさらに書類を数枚卓に置き、とうとう彼女の手には一枚だけが残った。
「これにするわ。程々に書斎が広くて街からは少し離れてるから人目にはつきにくいけど何処へ行くにもあまり遠くなくて星も見えそう。それから個別の部屋もあって家の作り自体もわりとしっかり。まあ、住んでみないと分からないけどそれは仕方ないわね。駄目だったらその時考えましょう」
 渡された書類をオーランは眺めた。
 生真面目な文字で書き込まれたその報告書には、確かに好条件が並んでいた。すべてが本当だとは限らないだろうが、すべてが嘘だというわけでもないだろう。そして、彼女の言うとおりに不都合な点が多すぎるとしても家ならば替えがきく。
 家ならば。他のものならば。決して替えのきかないものでなければ。
 替えのきかないもの。たとえば、それは命。たとえば、それは過去。
 他者に捻じ曲げられたとしても、隠されたとしても、消されたとしても、何処かにその欠片は必ずある。そう信じている。葬られ、途絶え、失われても、何処かには。
 ひとつの命が、多くの命が、過去を持っている。未来を失ったものにも過去だけは必ずある。そして、過去には事実が。虚実が。
 ──その先には真実が。
 きっと、ある。
 オーランは顔を上げた。今までざわめいていた心は凪いでいた。
 心がひとつに定まったためか。心強い存在を得たためか。おそらくはその両方なのだろうけれども。
 バルマウフラを見やると、彼女は笑いながら片手を挙げた。それに倣って片手を挙げる。そうして、宙で互いの手を打ち鳴らした。

 それは、過去から続く未来への合図だった。

あとがき

オーランの誕生日記念のはずがバルマウフラさんの誕生日になってしまいました…。二人が一緒に住むきっかけを書いてみたかったのですが、このオーランは少し後ろ向きな感じです。バルマウフラがさばさばしている(と思う)ぶんだけ他の人がそう見えるのかもしれません。
ちなみにこの後に続くのが「HARMONY OF THE SPHERE」という話になります。そちらもあわせてお読みいただけますと嬉しいです。

2018.08.16 / 2020.09.06