Hydrangea

「部隊を離れる」
 アグリアスの科白は、時を止めた。
 定例の打ち合わせのために、宿の食堂兼広間兼酒場に大方の面子が揃った頃合いだった。たぶん、それを見計らって彼女は切り出したのだと思う。
 瞬間、ざわついていたその場が静まり返った。まるで、誰しもが凍りついてしまったかのような、時が止まったかのような具合だった。
 外で未だ降り続く雨音が妙にはっきり聞こえた。
「そう。どうして?」
 凍った空気にひびを入れたのは、やわらかく落ち着いた声だった。声の主を見やると、ラムザが普段と変わらない様子でアグリアスを見ている。
 唯一人、彼だけが凍りついていなかった。私は少し不思議に思った。
 この部隊に入って……つまり、ラムザと共に行動するようになってから月日は浅いけれど、それでも観察していれば分かることは多い。ラムザは仲間全員に平等に接しているつもりなのだろうけれど、そう、たとえば、そのなかでも特に頼りにしているのは誰か、とか。相談相手は誰か、とか。そういったことは分かりやすい男だ。
 その条件に当てはまるのは、私の見立てではアグリアスとムスタディオ、この二人になると思う。ムスタディオとはよくつるんでいるし、アグリアスとは背中合わせで剣を取ることも多い。素の表情でいるのもこの二人と共にいるときが多いのではないだろうか。
 聞けば、どちらもラムザとは付き合いがわりと長いらしい。それもあるのだろう。
 その片方がここを離れるという。おそらくはラムザの心の支えとなっている人物の片方が。
 それなのに、彼はなんでもないという顔をしていた。丸椅子に腰掛け、手にしていた書と地図を卓に置き、彼女の次の言葉を待つ。
 不思議なことに思えた。
 私と同じ思いでいるのだろう、アグリアスに注がれていた皆の視線がラムザに移る。そして再びアグリアスに。どちらも普段どおりの表情で互いを見ていた。
 違うのは、それを見守る私達の雰囲気だった。
「オヴェリア様にご挨拶をしたい。拝謁が許されるかは分からないが」
「分かった。発つのはいつ?」
「明朝にでも」
 止めもしないラムザとそれを当然と受け止めるアグリアスのやり取りが続く。
「ゼルテニアは少し遠いね。戻るのは……」
「半月はみてほしい。その間、動いてくれて構わない」
「了解」
 これでこの話は終わりとラムザが頷き、アグリアスは彼から離れた。
「じゃ、打ち合わせするよ」
 ラムザの声で私達は我に返った。


「びっくりしたけど……でも、勘違いでよかった」
 打ち合わせが終わって自室に戻ろうとした矢先に、小声で話しかけてきたのは隣にいたラファだった。
「ええ」
 その言葉に、広間から続く廊下に視線をやりながら私は頷いた。話が終わるなり、足早に去っていったアグリアスの姿はもう見えない。
 確かに勘違いだった。
 アグリアスは部隊を離れると言っただけで、ラムザの元を去ると言ったわけではなかった。少なくはない離脱者のひとりになると言ったわけではなかった。
「アグリアスがいなくなっちゃうっていうのは考えられないもの。もちろんそれは誰でも同じだけど、でもやっぱりアグリアスだけはずっといるんだって思ってたから」
 しみじみとラファが言う。彼女の視線の先を追うと、そこにはラムザがいた。アリシアとラヴィアンと何やら話し込んでいる。
「私もそう思ったわ。けれど、こんなふうにラムザの傍からアグリアスが離れるというのも初めて?」
「ん? そうね、私が知ってるかぎりでは……たぶん初めてじゃないかな? 部隊の振り分けなんかで別々に行動することはあるけど」
 それでも一緒にいることの方が多い、とラファは続けた。
 確かに、と私も思った。そして、それなのにとも思う。そんなアグリアスと離れてラムザは不安になったりはしないのだろうか?
「まあ、べったりというわけでもないし……。大丈夫じゃない?」
 抱いた疑問を先読みするようなラファの言葉に私は苦笑した。彼女はまだ年若いのに妙に達観したところがある。
「そうね……。ラファが言うならそうかもしれないわね」
「そんなふうに言っても何も出てこないわよ」
 笑いながらラファが小突いてきたので、私も返した。そうしながらなんとなくラムザ達の方を見ると、ムスタディオが彼らの話に加わっていた。
「大丈夫かよ、お前。アグリアスさんがいなくなって」
 ムスタディオの声はわりと大きい。張り上げているつもりはないのだろうけれど、少し離れた私達にも彼の声はよく届いた。
「大丈夫だよ。それに」
 つられてなのか、ラムザの声も少しばかり大きくなった。先程と変わらないように見えるその表情に僅かに苦笑いが浮かんでいる。
「それに?」
「アグリアスは言い出したら聞かないし。あんなふうに切り出したことはなかったけど、その方が不思議なくらいだし。確かに一度オヴェリア様にお会いした方がアグリアスのためにもいいだろうなって思ってたし」
 ムスタディオに促されてラムザがすらすらと答える。それはまるであらかじめ準備していた模範解答のようだと私は思った。隣でラファも小さく唸った。
「お前なあ……」
 その答にムスタディオはやはり満足しなかったらしい。呆れたという風情で盛大に溜息をつく。
「心配じゃないのか? 長旅はやっぱりキツイしさ。それに……戻ってこないかもしれないって可能性も……いや、アグリアスさんにかぎってそれはないと思うけど」
「その心配はしてないよ。アグリアスは必ず戻ってくる、大丈夫。……まあ、心配は心配だけどね。ああ、そうだ」
 ムスタディオにきっぱりと言い切り、ラムザはアグリアスと同行するのだろうアリシアとラヴィアンに向き直った。そうして真面目な表情になって二人に告げる。
「アリシア、ラヴィアン。君達に頼みたいことがあるんだ」
「何?」
「何なの?」
 アリシアとラヴィアンの二人が揃って首を傾げる。
「アグリアスに変な虫がつかないように注意していて」
 ──それが一番心配だよ。
 ラムザが続けた言葉は、その場に沈黙を落とした。ラムザを囲んでいた全員が目を瞠り、口をぽかんと開ける。彼らのやり取りを見ていた私とラファも同じような具合になった。
「って……そっちか!」
 やがて真っ先に我に返ったムスタディオがラムザの肩を強く叩き、怒鳴る。そのツッコミに私は心の中で大きく頷いた。
「だって、やっぱりそれは心配になるよ?」
「そうかよ……。ま、お前の心が狭くて安心した! 心配して損した!」
 広間じゅうに響き渡るほどの怒鳴り声に、私とラファは耳を塞いだ。そうして、ムスタディオの言葉の正しさに思わず二人で頷きあう。
「心配して損したわ」
「本当ね。……なんだか疲れた」
 ラムザとムスタディオの掛け合いはなおも続いていたが、もう見守る必要はない。そう思い、私達はその場を離れた。



 自室の扉を開けると、先に戻っていたアグリアスが顔を上げた。
「メリアドール」
「ただいま。支度はもう終わったの?」
「ああ」
 それだけを短く返し、彼女は手にしていた革鞄を作り付けの椅子に置いた。椅子の背凭れにはいつも着込んでいる旅装がかけてある。
 愛用の剣は枕元に置かれてあった。
「旅とはいえ、いつもと変わるところはないからな。回復薬を少し多めに持つくらいで」
「そうね。……ところで」
 整えられたもうひとつの寝台に腰掛け、髪を解いた彼女を見ながら私は口を開いた。明日は早いからもう休むのだろうが、その前に少し話をしてみたかった。
「何だ?」
「ちゃんと戻ってきなさいよ?」
 そう言ってみせると、薄暗い部屋のなかで彼女は一瞬目を見開き、次いで微笑んだ。そうだな、とやはり短い応えの後に自分の寝台に座る。
「心配は要らない。必ず戻ってくる」
 先程のラムザと同じくらいの力強い声できっぱりと言う。そこに気負ったところは感じられなかった。
「必ず、って貴女もラムザも簡単に言うけれどね……」
「ラムザが何か言っていたのか?」
 アグリアスの声の調子が少し変わる。気になるのか、僅かに身を乗り出してきた彼女に広間でのやり取りを話そうか私は迷った。
 ──ラムザの言葉を。
 強い絆を感じた言葉があった。その後の戯けるような科白で誤魔化されてはしまったけれど、それでも失われない強さを持った言葉が。
 必ず戻ってくる、と彼は言っていた。
 必ず戻ってくる、と彼女も言った。
 ごく当たり前のことのように。迷いもなく。気負うこともなく。
 それは、けして損なわれることのない絆だった。互いを理解し、信じているという心だった。
 本当は「必ず」なんて言葉に絶対性はない。世界はいまや不確実で不透明だ。笑いあった次の日に骸と成り果てていることも珍しくはない。描いた未来を信じていても、その未来には自分が居合わせていないかもしれない。弟のように。
 けれど、だからこそ、この二人はそう言うのだろう。「必ず」と誓い、互いを信じ、目には見えない繋がりを大切にしているのだろう。
 闇の只中を駆けていても。奈落の底に佇んでいても。それだからこそ。
「メリアドール? どうした?」
 不意に黙り込んでしまった私を、怪訝な顔でアグリアスは眺めた。
「いいえ、なんでもないわ。まあ……ラムザは色々言っていたけれど、気になるなら自分で訊いてくれば?」
 結局、ことの顛末を話すのを私は止めにした。首を横に振り、促すような言葉で適当に誤魔化す。そんな私をどう思ったのか、彼女は肩を竦めて私と同じように首を振った。
「別段、気にしてはいない。私がいなくてもラムザはうまくやるだろうしな。悪口を言っていたのならあとで鉄拳だが。……ああ、それより」
 物騒な物言いの後に、思い出したようにアグリアスは言葉を継ぎ足そうとした。
「それより? ラムザに虫がつかないようにっていうのなら、見張ってあげるわよ?」
 彼女の先回りをして私は言ってみた。勿論これは冗談なのだけれど。
「虫?」
「変な虫」
「……」
 訊き返した彼女に「虫」の正体を話すと、想像もしていなかったというふうで彼女は顔をしかめた。睨むようなその視線が面白くて、笑いが少しこみ上げる。
 けれど。
「貴女が変な虫になるのか?」
「は?」
 次に彼女が繰り出した言葉は私の想像の斜め上をいった。何をどうしたらそうなるのか、それとも彼女にとってはそれが自然なことなのか、それとも私の言葉に何か危ういところがあったのか……。それは分からないけれど、思わず変な声が出た。
 誰が誰の変な虫になるですって?
「アグリアス……。どうしたらそうなるのよ」
「違うのか?」
 しかめていた表情を元に戻し、彼女が言う。生真面目な顔つきだけれど、声音はからかうようなそれだった。やられた。
「ならないわよ。というか、積極的に御免こうむるわ」
「だろうな」
 私の答に、愉快そうに彼女は笑った。そうして、「それより」と話を戻す。
「話の流れが変な方向に行ったが……それより私が言いたかったのは、そう、確かにラムザのことではあるが」
「何?」
 結局ラムザのことか。
「道草をあまり食わないように。皆を振り回さないように。興味本位で余計なものを買い込まないように」
「あと、腹を出して寝ないように?」
「そんなことは言っていない」
 幾つか注意事項を挙げたアグリアスはやはりどこか面白くて、私は口を挟んだ。すると、彼女は渋面をつくって再び睨んできた。今日の彼女はころころとよく表情を変える。
「ま、分かったわ。気が付いたら注意しておくけれど、期待はしないでね」
 私は言った。
 おそらく、ラムザは何かと理由をつけて留まるだろう。先を急いだりはしないだろう。心は急いているだろうが、それでも彼女を待つだろう。
 何故なのか、それはもう考えるまでもない。
「だから、ちゃんと戻ってくるのよ。できるだけ早く」
「……分かった」
 アグリアスが頷く。それを見届け、私は寝台から立ち上がった。見上げてくる彼女の肩を軽く叩き、言葉を繋げた。
「無事を祈っているわ。そうね、フィナスの河で赤チョコボに出くわさないように、とか」
 私の言葉に彼女は笑った。




 雨上がりの朝だ。
 夏至を迎えたばかりだから、陽が昇るのはとても早い。薄明かりに目を開けると、アグリアスの姿はもうなかった。
 起き上がり、窓辺に立つ。外を見やると、陽の光を受けて道沿いに植えられた紫陽花がきらきらと輝いていた。
 その紫陽花の道を歩いていくのは、アグリアス達。
 それを見送るのは、ラムザ。
 ひとときの、静かな別れだった。けして永遠ではない、永遠にはしない別れだった。
 これからの長くはない道行きのための、暗闇を駆け続けるための、そのための別れ。別離。
 必ず、と二人は言った。戻ってくる、と言っていた。その盟約は違わず成し遂げられるだろう。
 紫陽花の道を曲がったのか、アグリアス達の姿が消える。ラムザはそれでも暫くじっと佇んでいたけれど、やがてその場を去った。
 陽光が少しずつ力強さを増していく。その眩しさに目を眇め、私も窓辺から離れた。
 そうして一日が始まった。

あとがき

アグリアスさんの誕生日記念として書きました。ラムザとアグリアスさんの話では「信じる」というキーワードが登場することが特に多いな?と書きながら今頃気付きました。

なお、この話はPSP版のイベント「王女との再会」のちょっと前の時間軸となります。アグリアスさんの単独行(アリシアとラヴィアンも一緒ですが)にしてみましたが、ゲーム内ではラムザの行動にあわせてということなので、はたしてあの時ラムザはどこで待っていたんだろうとも思うのでした。こっそり見守ってたりして。

2018.06.22