Birthday, And

 その日は、特別によく晴れたというわけでもなければ、曇りでも雨でもない、なんでもない日だった。

 時を知らせる鐘の音を遠くに聞きながら、ディリータは石畳を歩いていた。
 多くの石は風化し、そんな石と石の僅かな隙間から雑草が生えている。石畳の両脇にあるのは崩れかけた壁、むき出しの柱。いずれも蔦が生え、日陰には苔がむしていた。
 しばらく歩くと、屋根も扉もない「建物」が見えた。多分に漏れず、その建物もまた今にも崩れ落ちそうな気配を漂わせている。古い戦で壊されたというが、直された形跡はどこにもなかった。
 そこは廃墟だった。忘れ去られた場所だった。……公には。
 戸口で歩を止め、ディリータは足元に視線を落とした。眼前に映るのは古びた石畳のみだったが、それすら塗り消してしまうかのように目を固く瞑った。
 いつのまにか詰めていた息をそうして吐き出す。細く、静かに、ゆっくりと。
 今の自分を知る者ならば、こんな風情には少し驚くだろう。そんな考えも掠めたが、それを自嘲するつもりはなかった。もとより、この場には誰もいない。
 そう、誰もいない。誰も来ない。忘れ去られた場所故に。
 忘れろと一度は自身にも命じた場所故に。
 息をすべて吐き出してしまうと、彼は顔を上げた。目を見開き、今はない戸を潜る。
 陽光がそのまま降り注ぐその場も、転がった石の他には何もなかった。教会だったはずだが、祭壇も机も椅子も本当に何もない。もっとも、それは彼がこの場を初めて訪れた時にも既になかったもの達だ。
 軽く周囲を見渡しながら数歩を進み、再び立ち止まる。思い出すよりも先に、足は自然に歩くのを止めた。
 視線を巡らすついでに石畳も見やる。そこにも何もなかった。何の跡もなかった。
 散った花びらも。
 流れた血も。
 何もなかった。


 あの日は、特別によく晴れたというわけでもなければ、曇りでも雨でもない、なんでもない日だった。

 佇み、ディリータは思い出す。この地を訪うようになってからそれは癖のようになっていた。
 いつものように彼女を探した。いつものように彼女はこの場にいた。誰も探せない、自分だけが探し出せる、彼女の姿だった。
 声をかけた。言祝ぎとともに花束を差し出した。初めての花だった。
 彼女が振り向いた。振り向いて、そうして。
 ……そうして。
 何度思い出しても、何も変わらない光景だった。思い出そうとしなくても、本当は忘れられない光景だった。
 今はもう痛まない古傷のように、普段は頭から追い払っている記憶。だが、この場ではそれを揺り起こす。ひとつひとつを確かめるように思い出す。
 過去を、あの日のことを、忘れられないはずのことを、思い出す。忘れないようにと胸の内に刻み直す。それは儀式のようでもあった。
 それでも、普段なら多くの時は費やさない。ただ周囲を見渡し、石畳に目を落とし、何もないことを確かめ、そして去る。それだけの間に過去に思いを馳せるだけだ。
 だが、今日は違った。偶然なのか故意なのか。それは自分でもよく分からなかったが、今日は。
「……誕生日だな」
 彼は囁いた。
「そして、命日だ」
 彼は続けた。合わせるように風が吹いた。
 懐から短剣を取り出し、手の中で弄ぶ。それは、あの日の短剣だった。
 今日のようになんでもない日だった。暑くもなければ寒くもなく、なんだかぼんやりとした晴れの日。平凡な日。
 それでもあの時の自分にとっては特別な日だった。他でもない彼女の誕生日の故に。
 それでも今の自分にとっては特別な日だ。他でもない彼女の命日……彼女を手にかけた日の故に。
 あの日以来、短剣は常に持ち歩いている。別に彼女の形見だからというわけではない。忘却を怖れるわけでもない。無論、護身のためでもない。
 ただなんとなく手放せないでいる、それだけだ。
「……」
 中途半端に積み上げられた石に腰掛け、彼は戸口に視線を投げた。投げた視線の先、人影がそこにはある。
「入って来ないのか?」
 気配を隠さぬままやって来た人影に、素っ気なく問う。言葉はごろりと落ちたが、相手には届いたようだった。
「貴殿が立ち去るのを待とうと思っていた」
 同じくらいの素っ気なさで相手は言葉を返した。
 いつか見たままの生真面目な表情は今も変わらない。記憶に残っているのはその表情と纏った甲冑、そしてひとつに結った長い金髪くらいだ。
 向けられていた敵意は何故か少し薄らいでいた。
 足音もなく入って来た相手は小さな花束を手にしていた。元は身廊だったはずの石畳をまっすぐ歩き、祭壇が置かれていただろう場所でその足を止める。
 花束を手向けるにはその場が相応しいと思ったのだろう。信心深かった故人を偲ぶには確かにそうすべきなのかもしれない。相手自身はそうでないにせよ。
「そこじゃない。オヴェリアが倒れた……死んだのは、「ここ」だ」
 だが、ディリータはそんな相手の背に声をかけた。
 相手が振り向くのを待ち、手にしていた短剣でとある箇所を指し示す。そこは、つい先刻まで彼が佇み、時を消していた場所だった。
「そうか」
 短く返し、相手は示した箇所まで歩み寄った。何もないただの石畳に花を手向け、瞑目する。瞬間、風が吹いた。
 相手が祈りを──何にだろう──捧げ終えるのを彼はなんとはなしに待った。
「本当ならば」
 やがて相手はディリータに相対した。途中で科白を切り、一瞥する。薄らいではいるが、けして消えることのない敵意がその視線にはあった。
 ああ、と彼は思った。
 かつてこの相手は──オヴェリアの忠実なる騎士だったアグリアス・オークスは、自分に言い放ったのだった。護りきれ、何かあったら叩き斬る、と。
 この教会跡でのことだった。
 自分はその言葉に頷き、約した。そんなこともあったのがこの場所だった。
 アグリアスが繰り出すだろう科白の続きを予想し、持っていた短剣を彼はくるりと回した。
 彼女に向けたのは剣の柄。自分に向けたのは剣の切っ先。
「持っている剣で斬ってもいい。それとも、渡したこの短剣で突くか?」
「……」
「仔細は知っているのだろう? 俺としてはどちらでもいい。約束を反故にしたどころか……自ら、だからな」
 鞘を後ろ手に放り投げ、彼は彼女に短剣を差し出した。二人分の血しか吸ったことのない刃はひんやりと冷たい。だが、それは何故か心地よかった。
「知っている。そして、私もその時を待っていた。……待っていたが、止められた」
 表情ひとつ変えず、彼女は言った。
 誰に、とはディリータは問わなかった。幼馴染の姿が脳裏を過ぎる。おそらくそれで正しいのだろう。
「だから、その短剣は貴殿が持っていればよい。そう、死の床まで」
「……言われなくてもそうするさ」
 犯した罪は露見しない。だが、その軛から解き放たれることはけしてない。この魂が滅びるまで。滅びてもなお。
 それが本当の罰だ。
 ゆらりと立ち上がると、ディリータは転がっていた鞘を拾った。刃を鞘に収め、懐にしまう。
 時間だった。
「ゆっくり話をしていってくれ。隨分心配していたからな」
 去り際にそう言うと、彼女は心得たように小さく頷いた。
 知る者以外は誰も来ない。この廃墟は忘れ去られた場所だ。それ故に自分のような者も、彼女のような者もすべてをこの場は内包する。
 素早く隠された気配をその場に残し、ディリータは教会跡を出た。
 形を変えた日陰を歩き、そうして日常へと戻っていった。

あとがき

オヴェリアさまの誕生日祝いに書きました。…しかし御本人はまるで登場せず、ディリータ(とアグリアスさん)だけという…。PSP版(獅子戦争)の方でオヴェリアさまとアグリアスの再会イベントがありましたが、あそこで渡された短剣(ナイフ)に「…あれか!」となったのは私だけではないはず。どこで手に入れたんだろうという謎が解けたとともになんともやるせない気持ちになったのでした。

2018.05.11