Grenache Sagittarius

 石畳に落ちる足音が重い。
 忙しげに歩く男達の姿はなく、暗い季節に顔を曇らせてみせる女達の姿も、彼女が歩く回廊にはなかった。
 珍しい光景ではあった。だが、それはけして気にかけねばならぬ程度のものではない。
 ただ単に、偶然誰もいないだけ。
 その証拠に、数個前の角では伝令や書記官を見かけたし、通り過ぎた厨房では女中達が乏しい食材を生かさんと知恵を絞る姿を見た。
 故にこの場に誰の姿も見かけないのは、誰もがここを通る必要がないという、ただそれだけのこと。
 常のように階段を下り、最初の角を曲がり、扉を開ける。その先にある二つの階段から右を選び、再び昇る。城故の入り組んだ構造も何度も歩けば覚えてしまった。
 この先に用事がある、それ故に彼女は歩いていた。なければ……おそらく、皆と同じようにここを歩きはしなかっただろう。そう、おそらく。
 石窓から射し込む陽光は昼下がりの頃合だというのに既に陰り、薄く弱い。隅々まで光は行き届いているものの、それは冷たく、秋の気配はもはやなかった。
 秋ではなく、冬の気配。雪が日常と化す少し手前の空気の冷たさ。
 石畳に重い足跡を残しながら、バルマウフラは最後の角を曲がった。

 扉を叩くと、応えはまもなくあった。
「入るわよ」
 その応えと同時に彼女は扉を開く。彼が今、ひとりでいることは知っていた。
 案の定、応えはしたものの来客に背は向けたまま、ディリータは目線を上げようともしない。その様子に忍び笑いを漏らしながらも、バルマウフラは後ろ手で扉を閉めた。
 室の中とはいえ足音は石畳に残り、それは響かずに消えていく。それでもできうる限りの注意を払い、一歩一歩を彼女は丁寧に進めた。
 陽は既にこの室を見放したか、窓から見える大木が陽を独り占めしているためか、薄暗い室は既に冷え始めている。あかりもなく、薄ら寒いだけの室に彼はひとりの時を過ごしていた。
 陣を張った砦の城には贅はなく、質素な設えの卓に広げられたのは、この近辺の地形を記した地図と数冊の書。地図には数箇所の走り書きがあり、特徴のある筆跡は彼女にとっては見慣れたものだった。
 地図の中に地名を見出し、それを合図とするかのように彼女は手にしていたものを地図の傍らに置いた。止めた足音のかわりに、硬質な響きが卓から零れて消える。
 その音に木椅子に腰掛けていたディリータは顔を上げた。
「……随分重い音だな」
「お届け物です。こちらにご署名を」
 手のひらを帳面に見立て、バルマウフラはすまして言った。見上げたディリータが一瞬の躊躇の後に、手にしていたペンでサインの真似事をしてみせる。彼女は笑って己の手を引いた。
 その様子に彼は無表情のまま口の端だけを釣り上げる。そうしてようやく彼女が持ってきたものに目を向けた。
「これは?」
 薄暗い室の卓に、細く赤く薄い影が伸びる。
「さっきも言ったとおり、貴方への贈り物よ。……小競り合いの戦に付き従ってきた誰もが気付かず、貴方自身も忘れていた「記念日」のね」
 自分のことは棚に上げてバルマウフラは答えた。ディリータが手を伸ばすより一瞬早くそれ──ワインボトル──に手を伸ばし、ラベルを読み上げる。
「グルナッシュ・サジテール。フルボディの赤ね」
 そうして、十二宮のひとつを象ったラベルに刻まれた銘を彼女は彼に見せた。より正確にいえば、銘の横に走り書かれた短い文章を。
「……」
 あまりにも短いそれを目に捉えた瞬間、普段は誰をも寄せ付けぬ彼の瞳が苦笑の色に染まる。ボトルを受け取り、改めて眺め始める彼の姿にバルマウフラは先刻のやり取りを思い出していた。
 それは、本当にちょっとした偶然。
 もしも自分があの時間に入城しようとしなければ、「彼」は一体どうやってこれを彼の元へ届けようとしたのだろうか。そもそも、こんなことがきっかけで捕らえられてしまったならば、「彼」は一体どうしたのだろうか。
 偶然が積み重なり、彼女は入城する直前で草陰の「彼」を見出した。「彼」……ラムザもまた彼女に気付き、目配せをした。
 そうして渡された一本のワインボトル。短い言葉。
「……まったく」
 ボトルを元に戻し、ディリータが独白のように呟く。その呆れたような苦笑は、きっと彼なりの照れ隠しなのだろう。
「あいつは確か飲めないはずなんだがな。適当に選んだんじゃないだろうな」
 手袋をはめていない指が文字をなぞった。
「それについては伝言があるわ」
「何と?」
 ディリータの視線とバルマウフラのそれが合う。バルマウフラは微笑みの形になっていた頬を僅かに引き締め、常の澄まし顔で言葉を続けた。
「『酒好きの仲間に星まわりの数本の中から選んでもらったから、味は保証する』だそうよ」
「……成程ね」
 なら大丈夫だなとディリータは笑い、立ち上がった。広げていた地図やら書やらを適当に片付け、括り付けの棚に並べられていた酒器を取って来る。
 器の数は、二つ。その数にバルマウフラも微笑み、しかし肩を竦めた。
「誕生月のワインは、ひとりで飲むものじゃないわね?」
「そういうことだ。付き合え。……最初からそのつもりだったとは思うが」
 彼の誘いに、彼女は「当然よ」と笑った。


 そして。
「確かに誘ったが……少しは遠慮というものを」
「あら。貴方は意外に弱い、私は強い。美味しいワインは飲みきらなければ勿体無いというもの。違う?」
 違わない、とディリータは酔いの残る吐息を零し、空瓶を窓辺に置いた。
 空を動いた陽が木の陰から抜け出、再び光が室に射し込みはじめる。色薄い初冬の夕光だ。
 バルマウフラは戸口でそれを眺めた。ディリータは窓辺でそれを。
 移ろう光が透明な硝子の上で跳ね、そして夕闇に消える。
 そのさまをふたりはしばし、眺めていた。

あとがき

ディリータ誕生日企画2004年版に書いた小説でありました。星座別で実際に販売されていたのですが、飲んでみたかったです。

2019.06.20追記:2018年ディリータ誕生日記念話として、対となる話「Dear Friend」を書きました。ラムザ視点のお話です。あわせてどうぞ。

2004.11.17 / 2017.09.23