Traum

 夢が見たかった。誰もが憧れるような夢を。
 夢を見たかった。皆が幸せになれる夢を。

 夢は現実に変わり、現実が夢幻と化す。
 時の移ろいと同じようにいつかはきっと変わる……そう思っていた。
 だけど。
 見ていた夢はもう戻らない。
 見ていたかった夢にはもう戻れない。
 ――見ていた夢にはもう戻らない。

 そのとき誰かが私に言った。
 ……夢が幻のまま心から消えたなら。
 新たな夢を心のうちに浮かばせましょう。
 静かな優しい声で。
 ただそれだけ言った。



 遠くで誰かを呼ぶ声がするのが聞こえる。少し高めの男の声。
 風に乗り風に紛れた微かな音。それに彼女は耳を傾け、少しばかり頭を振った。
 ――もういないのに。おかしなことだ。
 小さく微笑い、蒼く澄んだ空を仰ぐ。
 視界の端には石造りの建物があった。それは廃虚と化しつつある古い古い教会の聖堂。昨夜彼女達が一夜の宿にと、屋根を借りた場所だった。
 そういえばもうすぐ出立の時刻のはず。その準備だろうか……。
 ぼんやり考えながら彼女はまた空を見る。空は既に高く、雲はすじとなって風に流される。
 ――風に流されていたのは今までの自分か。
 また小さく微笑ってみる。思い出されるのはそのとき…流されていたときのこと。
 純粋に走っていた自分。父のことをただひたすらに信じていた自分……。
 そしてあともう一人。自分と同じように信じ……その故に死を迎えた弟。
「……」
 遠くからまた聞こえる誰かの呼び声。それは先程のものより少しだけはっきりと聞こえた分、彼女の期待と想像には反していた。
 ――全然違う。……もう聞けるはずもない。
 そっと目を閉じ、空の蒼さを視界より追い出す。もう消え去ってしまった雲のことも。
 消え去ってしまったのは数多の人より受け継いできた夢の数々。
 消え去っていったのは自分の夢と自分の分身。
 ――消し去ったのは自分自身。事実を目にした瞬間、自分の中から雲は消えていった。
 わだかまりも、抱いていた憎悪の念も。全てが彼女の心から消え失せていた。目のあたりにした光景が、彼女の感情の矛先を変えさせた。
 そして残ったのは……消えたものの影に隠れ、潜んでいたのはひとつの疑問となお残る純粋な悲しみ。疑問が巻き起こす予感めいた不安。
 ――それを消す風はいつ吹くのか。
 頬に風を感じつつ、彼女は風を待っていた。
 心に吹かせる……夢のかわりに浮かんだ雲を取り除く風を。


「……ール?」
 背後の気配に、彼女は目を開け後ろを振り仰いだ。すぐそこには金の髪を持つ青年が不思議そうに彼女を見つめている。
 彼の名はラムザ。ラムザ・ベオルブ……武門の誉れであるベオルブ家の出ながら、今は異端としてその身を狙われている者。
 彼女がかつて敵としていた人物。それは彼が異端者であったから。そして彼は彼女の弟の仇でもあった。……そう思っていた。あの日までは。
 しかしその実は、全ての真実の鍵を握りうる者。……それを知ったのは彼女にとってはつい最近のことだったが。
「メリアドール、ここにいたのか」
 そのラムザが彼女の前に立っていた。不思議そうだった表情を自然な微笑みに変えて。
「……ああ……もう出立か?」
 彼女……メリアドールの問いにラムザは首を横に振った。もう少しだけ時間がある、それが彼の答えだった。
「ならば何故?」
 自分の隣を指し示しつつ彼女は言った。先程までの呼び声はラムザのものだろう。するとラムザは自分を探していた……?
「……理由、必要かな。なんだかぼんやりしていたからね」
 示されるままに彼女の隣にラムザは座った。そして言葉のあとに「メリアドールが」と例の少し高い声で付け加える。
「ぼんやり……していた…か」
 ゆっくり彼から再び空へと視線を移す。既に消え去っていたはずの雲が、そこには新たに浮かんでいた。細くたなびく白いそれを彼女は見つめる。
 ラムザも何も言わずに空を見やった。そしてやはり視線が辿る先は蒼に浮かぶ白。空の蒼さを阻む白い雲だった。
 ――人の心と一緒だな。
 そのときの心のうちを明かしたなら、きっと二人ともそのように感じていただろう。
 心に出来た染みにとらわれるように、蒼の中の蒼でない部分に目を向ける。白を蒼と思わずに、染みから視線を逸らさずに。
「……夢を……なくしてしまった……。夢が消えてしまった……」
「……?」
 再び自分を見るラムザの視線に気づかないふりをしながら、メリアドールは呟く。空を仰いだまま身じろぎもせずに。
 夢が消えて…浮かんだ疑問も何もかも消して。そうしたら自分の心はどこに行くのだろう。
「……違う。……自分で消したんだな……」
 ラムザの答を待たずに、メリアドールは続けた。もしかしたら彼の答など彼女は期待していなかったのかもしれない。
 自らが放った言葉すら、彼女には既に何の価値もなかった。何故ならその短い告白はもう何度も彼女の中で繰り返されていたから。
 誰に聞いてもらうのでもなく、誰に道標を請うわけでもなく……彼女は自分の中で別離の言葉を唱えていた。それは今までの雲を消す呪文。
 自分の「夢」と思っていた幻を消す告言。
「……」
 また雲の流れが速くなっていた。雲は形を変え、うっすらと空に残りその場に白を留めおく。
 被っていたフードを脱ぐと、彼女は軽く首を振った。風に乗り、踊るように宙になびく……僧衣の下に隠されていたのはしなやかな栗色の髪。
 ラムザが閉ざしていた口を開いたのはそのときだった。
「メリアドールの夢は……」
 彼女の横顔をしっかりと見据えて、ラムザは言葉を吐いた。しかしそれは、彼が思っていたこと全てではなく、ただそこへ導くための一小節でしかない。
 自分が言おうとしていることはきっともう分かっているはず。……彼女の夢は夢にすぎなかったこと。夢という名の幻にすぎなかったこと。そして「誰か」が彼女達に見せていた空虚な絵空事。もう分かっているはずだ、彼は思った。
 『すべての民が平等に暮らせるような国のために』必要なのは数多の民の血。
 『神の国を作るために』必要なのは神器である聖石。
 ……そしてその中に秘められし強大な力が彼らの真の欲するところ。
 彼の言葉に、彼女もまた視線を声のする方へと……ラムザへと向ける。そして、ひとつだけ小さく頷き、言葉を繋げた。
「……夢だった幻を……私も弟も信じ込んでいた。それが夢だと思い込んでいたんだ。誰もが平等に、幸せになれるような国。それを本当に作れると思っていた……あの事実を知るまではな」
 聖石の本当の力を知るまでは。心の中で彼女は続ける。
 禍つ異形の悪魔を生み出す……持つ者を魔へと魅了する石。それは決しておとぎばなしだけの世界ではなかった。
 そして自分の目の前でそれを、事実を「真実」として認めたとき、善悪は自分の中ですりかわった。
「……ただ」
 それでも。おとぎばなしが真実になったとしても。
「ただ……?」
 彼女の言葉にラムザが復唱する。彼の促しのひとつひとつにメリアドールはゆっくりと頷いていた。
 ……まだ認めたくはない部分がある。自分の奥底に……全身を取り巻く血の由縁に。
 血という繋がり故に、畏敬の故に信じてきた……そのことを覆したくないという自分がいる。
「まだ確かめていないことがある。……それを確かめるまでは私はラムザ、お前達とは全てにおいて相容れるわけには」
「うん……分かってる」
 彼女の言葉は途中で途切れた。途切れさせたのは彼の微笑。全てを許容するような心からの微笑み。
「……?」
「でも抱えた疑問は……僕たちのそれも、メリアドールのそれも同じだ」
「……ラムザ……」
 遠くで誰かの呼ぶ声がする。……呼ばれているのは自分達。
 また風に流されそうになるその声を耳にしながら、彼女はまっすぐ彼を見据えた。彼もまた彼女を見据える。柔和な顔に似合わない鋭い眼差しで。
「……」
 しばらくしてから彼は再び穏やかに微笑み、立ち上がった。
「――疑問を晴らしに行こう。一緒に……なくした夢のかわりに」
「……」
 彼は右の手を、自分を見つめる彼女へと差し向ける。メリアドールはなおもそのままでラムザを仰いでいたが、やがてその手をとり自分も立ち上がった。
「真実を手に入れ、故に道を違うことになろうとも」
 少し高い、よく響く声でラムザはメリアドールに宣した。それは彼女にとってやはり少しばかり懐かしい響き。
「真実の故に血に背くことになろうとも」
 続けてメリアドールも宣する。その宣文にラムザは目をみはった。彼女は微笑う。
「……私は友と戦うことを誓う。全ての事実と真実に身を委ねる」
 そう、全ては事実が決める。事実は自分の中で真実となる……それこそが真の道標。
 彼の、驚きの表情が再び澄んだ青空のような笑顔に変わる。そしてラムザは握手で返した。
「僕も誓う」
 握った手を離し、ラムザは言った。また呼び声が聞こえ、二人は声のする方を向く。
「そろそろ出立の時刻のようだな」
「みたいだね。行こうか」
 ラムザはメリアドールを促し、歩を皆へと向けた。彼女もまたそれに倣おうとし。
「……」
 思いとどまり彼女はひとり、再度空へと目を向けた。先程まで眺めていた空を。
 空は既に一面の蒼。雲は風に流されたのか、その姿を留めてはいない。……そう思ったとき。
「あ……」
 ほんのうっすらと、白が蒼の中にあった。天の高いところに最後の余勢をもって。
 それは収束へ向かう為の最後の煉火か。
 それとも真実を阻む者の象徴か。
 幾多の幻となる夢達か。
「……」
「メリアドール?」
 呼びかけられて、彼女は消えぬ白を視界から追い出す。そうして再び僧衣のフードを被り、振り向かずにその場を離れた。
 あの雲はいつかはその姿を失うだろう。彼女は思う。
 しかし心に浮かんだ雲は未だ消えない。そして雲が消えるときこそ全ての真実が明かされるとき。
 雲を消す風を吹くのは自分。……いや、自分達。
 風の音が鳴る。風に被ったフードがはためき、音を立てる。
 心の中の――そして現の中の隠された真実に風を送り込むために。
 彼女は再び歩き始める。

あとがき

この話は「Sacrificed Heart」というメリアドールさん主人公の話の続きでした。「Traum」とはドイツ語でそのまま「夢」という意味です。
思うのはラムザの家の事情と、メリアドールさんところの家庭の事情がそれなりに似ているところ。で、立ち向かう立場となった二人はもしかしたら結構似ている?

1998.06.22 / 2016.03.15