第22回 エンディング考

 FFTが発売されて丸2年。早いものです。そんなわけで今回のコラムはこっちの世界の話、つまりFFTの世界での話ではなく、「FFTというゲームのエンディング」について語ってみたいと思います。
 FFTに限らず、私たちがゲームのエンディングに対する期待というものはとても大きいものだと思います。どんな結末を見せてくれるのか、主人公はどうなるのか。大嫌いな悪役は期待通りに(?)悲惨な末路を遂げるのだろうか……エトセトラエトセトラ。その期待はゲームが優れたものであればあるほど大きくなるのも事実です。

 で、FFTは私にとってそんなゲームのひとつでした。陣営が複雑に入り乱れるストーリー、主人公とは別の道を歩んでいるキャラクターの存在(ディリータですね)、ゲームシステムの面白さ。独特の癖のようなものはありましたが、それは別段苦にならなかったのでこのゲームをとても楽しくプレイすることが出来ました。で、エンディングを迎えます。

 最初見た時の感想としては「……。まあ、こんなもの、かな?」でした。友人がこのエンディングのことをケチョンケチョンのギッタギタ(なんじゃそりゃ)に言っていたので期待…じゃなかった、不安だったのですが、思ったほどでもなかったのです。しかし、それは実は最後までEDを見てなかったからで、すなわち私は最後の最後で流れるディリータとオヴェリアのエンディングを見ていなかったのでした。

 それから数日してこのエンディングも見ることが出来たのですが、ディリータとオヴェリアのこのエピソードというのは非常に微妙な位置にあると思います。多分普通に見ればこのエンディングを見逃す人は多いのではないでしょうか。確かに「The end」のテロップは出ないけど、まさか数分先にもうひとつドラマがあるとは……思わないですよね。が、本当はそれで終わりではないわけで、その後数分PSのリセットを押さなかった人は運良く(もしくは悪く)このエンディングを見ることになり、そこでFFTの物語を全て終えることになるわけです。
 で、先にも書きましたがこの「数分」というのは、エンディングの中において非常に重要な位置を占めると私は考えます。いつか小説もどきの中にでも織り交ぜて書くぞーと思ってたんですが、ここで書いちゃいますが、要するにこれはどこまでも歴史の裏側だということを意味します。デュライ白書でも描かれなかった、ましてやアラズラム・デュライが「ブレイブストーリー」の中に組み入れることもなかった歴史の暗部。それがこの「数分」の後に展開されます。つまり、あの数分間の暗闇は、虚構の世界から実際の歴史への幕間だったともいえるのです。

 そんなわけで、私はこれを見たときにとても面白い、と思いました。ディリータとオヴェリア、2人の結末をこういう形で持ってくるとは。おそるべし四角屋、そんなふうに思いました。その前のラムザ達の行末、デュライ白書の成り立ちも興味深いものだったと思います。

 ……の、ですが。

 しかし、この前私はまたしてもFFTのエンディングを見るという機会に恵まれたのですが、その時考えたのは↑のような事柄では一切なく、「これって…消化不良もいいところいってるなぁ」でした。いろんな意見が出てくるかもしれませんが、少なくとも私はそう思いました。で、それ以上に思ったのが「このエンディングは、とても長い時間をかけてプレイしてきたプレイヤーにもたらすものがあまりに少なすぎる」ということ。要するに「何十時間もかけてこれかいー」と喚きたくなるような、そんなエンディングになっていると思ったのです。

 かといって別に私は物語を全てハッピーエンドにしろ、と言ってるわけではありません。ただ、FFTの場合を考えると「あんなに頑張ってきたのに、これってひどい。もうちょっと報われてもいいんじゃない?」となります。ラストバトルでも朝日が昇るようなクリアのファンファーレが流れるのに…一体、どうして。幽霊船の爆発に、ラムザ&アルマの葬式に、クレメンスの火刑に、ディリータ&オヴェリアの愛憎劇がエンディングの全てなんてひどすぎるーっと私は絶叫したのでした。多分、FFTのエンディングを見た人ならば誰でも一度は思うことに違いない…そう思っていたりするのですが。

 ところで、先日のNHKスペシャル「世紀を越えて」(大好き)でも同じようなことを取り上げていました。「危険な情事」という映画を御存知でしょうか。私はタイトルのみで内容は全然御存知でもなんでもなかったのですが、この映画は市場に出る前に数回のリサーチを行ったのだそうです。つまり試写会アンケートということですが、それまでは低調だった支持率がある時を境にグンと跳ね上がるのです。一体何故だったんでしょうか。
 そのわけは、フィルムの取り直しにあります。最初の「危険な情事」ではラストシーンが悪役(と敢えて言おう…主人公をストーキングする元不倫相手)の自殺、という抽象的で冷たい、ある意味感情のやり場に困るものだったのです。つまり、映画を見るうちに登場人物に感情移入していった観客は、これでもう終わりなの?と思ってしまうようなエンディング。起承転結の結の部分が弱かったためにイマイチ支持率も上がりませんでした。
 そこで、製作側はラストシーンの取り直しにかかることになります。今度のラストシーンは、前述の悪役の女性を主人公は殺そうとしますが、殺しきれずにその女性は逆に主人公に襲いかかります…と、その時女性は銃で撃たれて死ぬのですが、その銃を撃ったのは今まで数々の辛酸を舐めてきた主人公の奥さんだったのでした。

 要するに前者のラストシーンは観念的であり、抽象的であり、主人公やその奥さんに感情移入をしている観客に水を差すものだったため(ほっとはするでしょうが)に受けませんでした。それがスタッフの意図するところだったとしても、それでは観客は消化不良だったのです。後者は生理的&心情的に納得し、実に分かりやすい結末となったので(ここで人間の暴力性が云々と語ることも出来ますがそれはおいておくとして)結果的に観客は納得しました。

 同じ番組内で他の監督さんが言っていたのですが、「観客を無視して作品を作るのは馬鹿げている。そんなのはホームビデオにでも撮ってすればいいんだ。もちろん、全てにおいて迎合する必要はないしそれじゃ作品を作る意味なんかないけれど、観客が退屈そうだったら少しは考えるのも必要だろう?」……もっともだと思います。映画というエンタテイメントを追求する分野であるから言えることですが、しかしこれは同様にエンタテイメントを追求するひとつの新興勢力・ゲームの世界でもいえるのではないでしょうか。いや、逆に何時間も何時間もかけるゲームだからこそ、そのマーケティングリサーチや何やかやを含めてストーリー、とりわけ結末を大切にする必要はあるといえるでしょう。

 ゲームというジャンルは今や、一冊の小説よりも、ましてやコミックやアニメ、映画やドラマよりもその世界観は広く壮大な物語性を持つものになりました。しかし、絶対に忘れてはならないのは、ゲームはどのメディアよりもずっと時間をかけて取り組むものだということです。そして少なからずのソフト代を費やして画面に向き合っているのです。
 そのことを製作する人達はまず念頭において、ストーリーや設定、そしてエンディングを考えてほしいなと思った、FFTの結末でありました。考える分にはとても面白いんですけどね…。

1999.06.21