霞月夜の内緒話

「少し、いいかしら?」
 背中にかけられた声に、ディオンは立ち止まった。
 振り返って声の主を見やると、そこには小首を傾げたジルがいた。
「シ……ジル殿?」
 クライヴのことをイフリートと未だに時折呼んでしまうように、ジルのこともシヴァと呼びかけてしまう。己の失態を恥じつつ取ってつけたように言い換えたディオンにはお構いなしに、ジルは「相談があるの」と笑んだ。
「……私に?」
 そうディオンが訊ねると、ええ、とジルが頷く。立ち話もね、とアトリウムへ促され、霞み月の光を頼りに階段を上った。
 出しっぱなしの本と、書板と、何故か天秤。置かれたままのそれらに目線を走らせ、ジルが机に座る。
「後でお説教ね。ルサージュ卿、座って?」
 言われるがまま、示された木椅子にディオンは座った。
「それで、相談とは」
「クライヴのこと、なんだけど」
 夜のアトリウムには他に誰もいない。妙な音も聞こえないから、「ダンジョン」も静寂に沈んでいる。その静けさに自らの声が響くのを気にしたか、ひそめた声でジルが切り出した。
「イフリート……すまない、クライヴの?」
 やはり言い間違えたディオンに、ふふ、とジルが笑う。
「そう。誰に相談しようか悩んだのだけれど……、ルサージュ卿が久しぶりに来ているって聞いたから」
 あのね、とジルは続けた。
「返したいってずっと思ってる。……でも、どうしたらいいか分からないの」
「……というと?」
 ジルがぼかした言葉をディオンは直感で掴み取ったが、言い当てようとは思わなかった。そのまま彼女に話を続けるよう促す。
 ふう、とジルは溜息をついた。
「あの人からもらったたくさんの想いを、私も同じくらい返したい。受け止めるだけではなくて」
 本当は、受け止めるだけでも精一杯で。いつも後から気付いて、そして落ち込む。
「貴女は既に多くを返していると思うが……?」
 迷子のような物言いのジルに、ディオンは言った。
 すべての事情は知りようもないから正しいのかも分からないが、二人のやり取りを垣間見た限りではそう思う。彼女の存在がなければ、クライヴはもっと早くに潰えていた。アルテマの思惑のままの末路を辿り、世界は崩れ去っただろう。
 そして、愛を覚えた相手がいたからこそ、「帰還」できたのだと思う。
「そう言うと思ったわ。でも、それは」
 私の求める答ではないの。そう続けた彼女に、今度はディオンが溜息をつく。
 彼女の、言葉は。その願いは。
「ひとつ、答がある」
 言おうか言うまいか。僅かな逡巡の後にディオンはジルを見やった。
「なに?」
 霞み月のささやかな光がアトリウムに射し込む。無音のはずなのに、光にかすかな音を感じた。
「愛に、慣れることだ」
「……愛に……慣れる?」
 問い返したジルが今度ははっきりと首を傾げる。そんな彼女に、そうだ、とディオンは頷いた。
 これは、己にこそ言い聞かせなければならないのだが。
「愛されているということを頭では分かっていても、心から信じていても、……それでも揺らぐときはある。相手を疑うという意味ではなく、自身が信じられない」
 最愛が己に与え給うたものは計り知れない。それなのに、未だに心が震える。あたたかくも熱い腕のなか、心のどこかが軋んでやまないときがある。
 君のその軋む心は、と彼は少し悔しそうに言った。僕にはどうやっても癒せないけれど、それでも。
 愛されたい、そう願った別の心。いつか、それを覆う日が来れば。
「……ええ」
 こくり、とディオンの言葉にジルが頷き返す。
「私達に与えられた時間は有限だが、今となっては無でもない。受け止め、望み……、そうしていつの日か返すことができる日が来る。それまでは、徐々に慣れていけばよい」
「先は、長いわね?」
「そうなるな」
 もう一度大きな溜息をついたジルに、ディオンは微笑んだ。


「ありがとう」
 別々の寝所へ向かう、その別れ際にジルが言った。続けて思い出したように問いかける。
「ルサージュ卿は、返せている?」
「……分からないが。おそらく、少しは」
 ディオンが答えると、きっと大丈夫だと思うけれど、と言いながらジルは何故か背後を気にするようなそぶりをした。
 そのそぶりを不思議に思う間もなく、慣れた気配を感じ取る。あ、とディオンが声を上げそうになる前に彼女がひらりと手を振った。
「これは内緒ね」
 笑いながらそう言って去っていく彼女に苦笑し、ディオンは息を吐く。
 そうして、己を探しにやって来た最愛を迎えた。

あとがき

テラディオだけどどちらかというとクラジルなお話。短いお話ですが、執筆時間も短かった…勢い任せで書いたらディオン先生によるお悩み相談室というちょっと珍しい構図になりました。

2024.06.22 / 2024.07.06