一針、そしてまた一針。心の声を布に刻む。祈りと願いを、想いを込めて。
 針子の手伝いで繕いものはよくしていたが、上等な飾り布と糸で刺繍を施すということは本当に久々だった。すっかり忘れているかと思ったが、思いのほか手はよく動いた。ステッチも忘れていない。
 懐かしい、と思う。今の気持ちを表すならこの言葉なのだろう。ジルは思った。
 人質同然の身でやって来た知らない土地。思いもよらぬ出会い。ぬるま湯のようで、陽だまりのようで、遠くに雨雲があるのは分かっていた、そんな日々。嵐の日。月とメティア。願いを叶えてくれるという星は、何もかもを打ち砕いた。――その直前までの、淡い感情。すべてが、懐かしい。
 今、というときも懐かしいと思う日々も来るのだろうか。できるならば、その日々は優しさで満たされたものであってほしい。あたたかさを感じながら思い出したい。
 変わるもの、変わらないもの、変わってしまったもの、変えていかなければならないもの、それらを独りではなく、皆と――彼と奔走しながらも、時々は懐かしむようなそんな日々が来てほしい。
 想いを伝えても、伝えられても、抱きしめられて口づけを受けても、永遠の愛を告げられても、それでも願ってしまう。続きを、と望んでしまう。
 ――祈りよ、届け。
 祈りを捧げる先は分からない。メティアではない。それでも。
 一針、そしてまた一針。心の声を布に刻む。祈りと願いを、想いを込めて。


 そんなジルの耳が、硬い音を拾った。そして、何かが転がっていくような音。
 音の行く先を見やると、階下にはルサージュ卿がいた。いつもは大広間の入り口で門番よろしく佇んでいるのに、珍しくサロンへ向かっている。ドリスかコール、もしくはオットーにでも用があるのだろうか。
「……?」
 不気味な陽光をはね返して何かが煌めいた。
 針を針山に戻し、手元の飾り布も汚れないように卓に置く。大広間を抜け、デッキに出てみると、煌めきの正体が分かった。落ちているそれをしゃがんで手に取り、見つめる。
 赤子の手のひらに乗るくらいの大きさのそれは、釦のようだった。銀だろうか、見た目よりもずっしりと重い。端が少し黒ずんでいるほかは、よい状態といえるだろう。カローンではないから、選定眼に自信はないが。
 意匠は、グエリゴールの女神に侍る竜。とすると、釦に加工したメダイなのかもしれなかった。
 ともあれ、とジルは立ち上がった。持ち主が誰なのかは分かりやすい。オットーと話し込んでいる「彼」のほうへ向かった。

§ §

 オットーとの話にやんわりと割り込んできたジルに、ディオンは面食らった。彼女が話しかけるなどということは想定していなかったし、纏う雰囲気も悲壮さを感じさせない。慈愛に満ちたまなざしを向けられ、ディオンはますます困惑した。
 ルサージュ卿を少し借りるわ、とオットーに言ってのけたジルは、ディオンをサロンの長椅子に座らせた。そうして、突然だけど、と前置いてからジルが卓に置いたものをディオンは息を呑んで見つめた。
 グエリゴール、そして竜。これはまさしく、己のもの。
 何処で落としたのだろうか、とディオンが顔を上げると、ジルは頷いた。
「湖に落ちなくてよかったわ。ルサージュ卿のものよね?」
「あ、ああ……。……確かに」
 確認の響きで問うジルへ頷き返す。思ったよりも動揺の色が濃く出てしまった自身の声にも驚きつつ、再び視線を釦へ向けた。
 端が黒ずんだ銀の釦。これは、彼が。
 ――実用にも適っていて、良いでしょう?
 頭のなかで声が響く。どうにもメイルのバランスが左右で取れない、とこぼした己に彼が用意したもの。それは、メダイを加工してできた銀釦だった。
 あのとき、彼が用意した釦は二つ。持ってみると、左右の重さは微妙に違っていた。
 ――グエリゴールのご加護を最大限に得られますように。
 器用な運指でメイルの端に縫い付けられていくさまを、ぼんやりと眺めた。動く際に邪魔にならない位置が良いでしょう、と彼が言うので、メイルを脱いだことも覚えている。……その日は、メイルを再び着込むことはなかった。
 彼は、釦の手入れを怠らなかった。銀製ゆえの黒ずみも、糸のほつれも見逃さなかった。
 二人だけの時間だった。心地よい沈黙に満ちたことも、会話に弾んだことも、涙を頬で受け止められたことも、様々あった時間。手が磨き粉で汚れていますからね、と微笑んだ彼を、今も。
「ルサージュ卿? 私でよければ、繕いましょうか?」
 ジルの申し出に、ディオンは首を横に振った。彼女が完全なる善意からそう言ったのは分かっていた。だが、やはり。
「いや、それには及ばない。……代わりに、頼みがある」
 釦を手のひらに乗せ、ディオンはジルに頼みを告げた。


 数刻後、ディオンは再びメイルを着込んだ。ジルのほか、その場に居合わせたオットー達の視線を感じてはいたが、さして気にはならない。それより、メイルのバランスが合っているか確認するほうが重要だった。
 ディオンの頼みをジルは快く引き受けた。『鎖帷子? それともひらひら?』と訊いてきた彼女に、苦笑しながらディオンが鎖帷子、と答えると、彼女は頑丈そうな針と金属製の糸を持ってきた。それはディオンも見たことがあるものだった。「彼」が使っていたものとそっくりだった。
 そうして、ジルによる「特訓」が始まった。針を持ったことなどほぼないディオンに、ジルは『釦の留め方だけ教えるわね』と言い、ディオンは彼女の針使いに倣った。『ちょうどいいところに見本があったから』と笑いながらクライヴの外套の釦をすいすいと繕ったジルの手捌きに目を瞠りもした。彼の技量もそこまでではなかった、とディオンは改めて思った。
 苦労した挙句にぐるぐる巻きの状態でメイルに留めた釦は少し傾いて見える。だが、実際は「見えないところ」に配されているのでさしたる問題はない。バランスも憂慮すべき範囲ではなかった。もっとも、完璧でもなかったけれども。
 あの、完璧さも手に入れることもない。メイルを脱いだ後の心身の解放に浸ったひとときも。
「ルサージュ卿」
「……何だろう、ジル殿?」
 まだ礼を言っていなかった、とディオンが思う前に、ジルが小首を傾げて名を呼んだ。向き直り、彼女が続けようとする言葉を待つ。
「いつか、その釦……メダイが綺麗に手入れされることを願っているわ」
「――」
 そう言うと、じゃあね、とジルは笑顔で去っていった。まるで、虚構で固めたディオンの内心を見透かしたかのように。
 何故だろう、とディオンは思う。
 彼女が、そのように言ったことも。
 己が、あの日々を、大切なひとときを思い出したことも。
 彼、を思い出して苦しくなっていることも。
 いつか、という時間は無意味なはずなのに、彼女が己に対しても希望を紡いだことも。
「……」
 ディオンは、無言のままその場を去った。
 唇が震え、涙が零れ落ちる前に、己の果たすべき義務へと逃げた。

あとがき

NHKで放映されていた「世界はほしいモノにあふれてる(せかほし)」の録画を久々に見返したら「ボタン」を探すバイヤーさんの回が。なんかこれはいいかもしれないとお題的に書いてみました。読み返したらクラジル65%、テラディオ35%というか、未練たらりなディオン殿下。いやでもこの方本編でもオリジン時には相当へなちょこのかっこつけだったので…無理している人第1位だったので、どうしてもこうなりました。

ジルの刺繍はどの色も素敵だなあと思いながらも確か「白」を選んだ記憶。天鵞絨の赤はなんとなくジョシュアっぽいなと思ってこちらチョイスしたんですが、クライヴ色ってカラーコードでいうと何でしょうね…。

2026.01.03