隠された言葉

 きっかけは、特になかった。強いていえば、少しばかりの古傷を齎すこともある思い出話に出てきた「単語」だった。
 先を行く。いつだって過去へは戻れない。だが、それは過去を振り返らないとは同義ではない。
 ディオンは、斜め前のソファに座るテランスを眺めた。
 テランスもディオンを見ている。ディオンが眺めているのとは違って、テランスははっきりとディオンを見つめていた。笑みを浮かべているわけではないが、彼の穏やかな表情は心が落ち着く。ディオンはそう思った。
 今は、そんな顔つきで彼が話をしていることも不思議に思えた。
 手紙、という単語。
 あれは、想像していたよりも深く彼に打撃を与えていた。彼に渡した「最後の手紙」。
 ……そうして、彼の叫びを思い出す。おそらくは「奇跡」とも言えるのだろう再会をして、少し経った頃の。

§  §

 その日そのとき、それは、視野狭窄のなかで選択を違えなかった己の唯一にして最大の過失なのだと知った。
 罪を贖うために、彼から手を離した。束縛していた彼を解放した。それが最良だと信じ込んでいたのに、彼は違うと叫んだ。
 ――僕のこころのやり場は、いつだって君なのに。貴方だけなのに!
 叫び、すぐさま脱力した彼を支えた。鍛えた体躯を支えるのは、長い療養ですっかり衰えてしまったディオンひとりでは無理だった。幸いと言ってよいのか、クライヴが叫び声に気付いて駆け寄ってきたので事なきを得たが、クライヴもまた複雑そうな表情でその場に座り込む羽目になったディオンとテランスを見やっていた。
 ――手紙を、持ってきてくれないか。
 抱きついたままのテランスの背を撫でながら、ディオンはクライヴに言った。クライヴは唇の動きで問い返したが、すぐに思い当たったようだった。ひとつ頷き、自室へ戻っていった。
 ――嫌だ。もう、絶対に、君を、僕は。
 息継ぎも言葉の順序も滅茶苦茶になっていくテランスを宥めるように抱きしめる。テランスはディオンをきつく抱きしめた。軋み、ヒビが入り、砕ける寸前のこころは己ではなく、彼のほうだとディオンは分かっていた。分かっていたが、どうにもならなかった。己の選択に間違いはなかったがゆえに。間違いなどなかったと信じるしかなかったがゆえに。
 どうすれば。
 いくら自らを律し、精神を鍛え上げても、心というものは脆い。それは、己が身をもって厭というほど思い知った。そのために、命を擲とうと思った日があった。そのために、無様に生き残ってしまった命など捨てようと思った日もあった。
 贖罪のために。そう言い放った己を止める者はいなかった。
 このような命など。そう呟いた己によって、それしか思いが至らなかった己によって、彼のこころはぐちゃぐちゃになってしまった。
 ――大丈夫、大丈夫だ。
 すまなかった、とは言えずに、ディオンは「未来」の言葉をテランスに囁く。私は此処にいる、お前の傍に在るから、とディオンが告げると、過呼吸気味に陥っていたテランスはディオンを見つめた。真偽を問うようなまなざしだった。
 その問いに、ディオンは答えなかった。テランスが愛しい。愛している。真実、そうだった。次に同じようなことが起きたら、彼と共にと心底から思った。だが、本当にそうできるだろうか、と己に問えば、答は出ない。
 ――手紙を持ってきた。
 ディオンはテランスを抱きかかえたまま、声の主に振り返った。体躯の割に足音は存外軽いのだなと思ったディオンだったが、彼から手紙を差し出されると、緩く首を横に振ってテランスに目線をやった。
 促されたことに気付いたテランスがクライヴから手紙を受け取る。その手が少し震えていた。ディオンはテランスが倒れぬようにしっかりと抱え直す。テランスは相応に重たいが、背を上半身に寄りかからせてしまえば、それほどのことはなかった。
 ――俺は席を外す。
 誰も来ないようにしておくから、と言ったクライヴに心のなかで謝しながら、ディオンは手紙を開かないテランスを眺めた。すぐさま読んでほしい、というわけではなかった。
 最後の手紙、の後に書いたこの手紙は、おそらく彼をさらに苦しめるだろう。それでも、気付いてほしいとディオンは願う。己も気付かなかった文章を、単語を、指摘したのは、不死鳥の友だが。
 心残りなどない――。
 本当に、そう思っている人はそんなことはわざわざ書かないよ。フェニックスは床に伏していた私に笑って言ったことを。

§  §

 思い出話は途中で途切れた。
 ゆったりと立ち上がると、テランスはディオンの隣に座った。そのまま、口づけを望む彼にディオンは応えた。ソファに深く凭れ、乗り上げてくるテランスを両の腕で囲む。自由が利く左手では昔からのようにうなじを、石化が邪魔をする右手では腰のあたりを。
 唇同士が互いの表面に触れ、テランスがディオンの唇を舌先で舐めた。その行ないにディオンの頬が自然と緩む。あたたかい、という優しい心持ちがまだ勝っているが、すぐに変わるのだろうなと思いながらテランスの舌を両唇で包んだ。熱が熱を呼ぶだろう。
 想いが、想いを。
 そして、それでいい。それがいい。真実、彼だけは共に。
 過去を忘れはしない。――だからこそ、今、そして未来に向けて。

あとがき

オリジン組生還話でした。「最後の手紙」の続きなようなそうでないような…この話から見れば「最後の手紙」は繋がっているのですが、あちらから見ればこの話は繋がっているかどうかは不明です。とりあえず「手紙」と「時計」は個人的テデワード。

ところで、作中の回想シーンのテラ混乱状態は、一度ならずとも何度でも起きると思うのです。ディオンの罪の意識から来る願望、テランスの喪失の絶望。以前書いたこともありますが、なんとなくまた書いてしまいました。好きらしい。

本当はまったく違う話だったのですが、そちらもいつか書きたい…。

2025.12.30