カスミソウとの別れ
季節外れの雪かと思った。
「ソフィアが生けたのだ。なんでも、庭師が計算を誤ったらしい。あれこれとソフィアは説明していたが、私の興味が薄いのか頭に残らなくてな」
常の一輪挿しは空のままで、卓の中央に据えられた大きめの花瓶には、ふわふわとした小花をびっしりとつけたカスミソウが生けられていた。というより、詰め込まれていた。
「そうですか……ソフィアが?」
主人であり、幼馴染であり、近頃は別の関係性も増えたディオンの曖昧模糊な説明を聞きながら、テランスはカスミソウを眺めた。飛竜草ばかりのこの部屋に別の花があるのは珍しい。調度品がそれほど主張していないディオンの部屋に、純白のカスミソウは不思議と馴染んだ。
「そ、そうだ」
二度頷いて早口気味で答えたディオンを少しばかり不思議には思ったが、他に割くリソースはテランスにもなかった。ソフィアは古参の老侍女で、特に何かしらの心配をする必要はない。気が利き、かといって出過ぎることもなく、気性も穏やかという得難い存在だ。互いにディオンを心から案じる「同志」でもある。
「普段は添え物の花ですが、こうして見ると……ディオン様?」
本心を隠して話題に乗ろうとしたテランスの服の裾を、ディオンが引いた。夜も更け、不寝番は離れたところで待機している。ディオンはどうやら人払いを済ませていたらしい。……これから、のために。
「敬称は要らぬ。此処では、昔のように名前だけで」
少し俯いて囁くように言ったディオンに、テランスは頭に血が上るような感覚を覚えた。
「……よいのですか?」
「敬語もよせ。余……私は、其方に命令したくない。……此処に来たこと自体も」
聞き取りづらかったその言葉をしっかり聞くために、僅か半歩にも満たない距離を詰める。
「命令なんかじゃないよ。私……僕は自分の意思でディオンを、その、ええと……」
何と返せばいいか分からなくなった。しまった、こういうときの口説き文句のひとつでも勉強しておけばよかったとテランスは思ったが、すべては後の祭りだった。
そのかわりにディオンの頬に指先で触れる。ぴく、と震えた後に顔を上げたディオンもまた緊張した面持ちでテランスを見つめた。自らの頬に置かれた指を軽く撫でてから、テランスの頬をディオンの手が包み込む。誘うようにほんの少し力を込められたその手に抗う必要もなく、テランスはディオンに口づけた。
テランスがカスミソウの花言葉を知ることになるのは、そしてディオンのささやかな嘘とソフィアの微笑みを知るのは、もう少し先のこと。
カスミソウの花言葉は――。
霜柱
天幕から出たディオンは、其処此処に霜が下りていることに気付いた。道理で昨夜は寒かったわけだ、と独り言のように思う。あまりにも寒いから、夜半前に下がったテランスを呼びつけてしまった。温石をご用意しましょうか、と言う彼に、其処にいるではないかと答えたのだが、彼は一瞬当惑した後に、耳まで真っ赤に染めてしまった。
抱き枕になるくらいならいいですよ、と言う彼の意向を半ば無視し、己を抱くように仕向けた。彼は自分からは滅多なことでは触れてこないから、こうでもしないと何も始まらない。勿論、寒かったというのは本当の話で、温石になってくれるだけでもよかった。だが、せっかくなのにという思いに捕らわれてしまったのだから仕方がない。
そうして、こういうときテランスは渋々といった風情では己を抱かない。彼は彼で、欲を抱え込んでいるのだろう。それでも、慎重に状況を判断した末に、許容範囲すれすれで事を進める。
故に、周囲から咎めの言葉やら視線やらを受けることはほぼない。ほぼ、で済んでいるのは偏にテランスの功なのだが、完全というわけではないのは二人揃っての責だろう。どちらかと言えば己だとは思うが。……とはいえ、「若いというのは結構ですなあ」と、十代の頃を知るかつての上官に朗らかに言われた時には返す言葉に迷った。
防衛の前線で何を、と咎められないのは不思議といえば不思議なのだが、テランスはその理由を知り得ているようだった。教えろと言ってみても、報告せよと命じてみても、彼は頷かない。知らぬのは己ばかりという状況になっている。少しばかり不愉快ではあったが、さりとて彼を求めたい発作にかられることは往々にしてあるので、現況はありがたく享受していた。
情事で散らかしたあれやこれやの後片付けをしているテランスを天幕に残し(手伝うと言うと怒るので諦めている)、ディオンは親衛兵を伴って少し歩くことにした。霜柱ができているらしく、踏みしめるたびに足元でサクサクと音が鳴る。ほんの僅かな浮遊感が愉快だった。
もうすぐ冬が来る。本格的な冬の間、大きな戦には発展しないことが多い。それ故に砦での監視程度に警戒レベルは引き下げられるのだが、さて今冬はどの砦に配されるのか。ツインサイドに新たに構えた神皇宮に滞留する予定はせいぜい年始の謁見の時くらいだろうか。ついでとばかりにバハムートへの顕現は求められるかもしれない。ザンブレクがクリスタル自治領に侵攻してまだ月日は浅い。他国の牽制と元々の自治領民を納得させるための「広報活動」もディオンの役目のひとつになっていた。
「……」
ふと思い立ち、ディオンは歩き方を変えてみた。背後の親衛兵の慌てる気配をよそに、ふわふわと「歩く」。地に足をつけない程度に――要するに浮いたまま移動しているのだが、霜柱を民に見立てると、踏みしめて愉快な気分になっていたのが一気に萎れたからだ。
もっとも、タイタンではないから直接踏みつぶすなどということはないが、光を放って「敵」を蹴散らすという意味ではやっていることは大して変わりない。自国の繁栄、民の安寧、そして。
大義があればこそ、戦ではその光を放つ。だが、「仕方がない」の矛先を無辜の民に向かわせろと飛竜草を賜ることがあるとするならば、そのときはどうすればよいのか。それが、自国でなく、他国の民草であってもだ。クリスタル自治領への「遷都」はその危うさと隣り合わせで、胃の腑が痛んだ。それを知る者は彼しかいないが。
「……何をしておいでですか」
霜柱を踏みながらやって来たのは、その彼だった。呆れと咎めの声色に、ディオンは魔法を解いて笑ってみせた。
足元で鳴る、霜柱の音。
「冬の訪れを出迎えていた」
ディオンの嘘をテランスは見逃すつもりのようだった。小さく溜息をついて、「まもなく朝食の用意が整います。斥候が戻っていますので、その場で軍議の予定です」と事務的に言うと、ディオンを促した。
ディオンはその言葉に頷いた。踵を返し、テランスだけを伴って天幕へと戻る。
雪降る前の大地を濡らす血の量はどれだけだろうか。命を失った骸はどれだけ転がるのか。そうして雪がすべてを覆い尽くした後に春は来るのだろうか。
感傷的だな、と思いながらもディオンは天幕に入った。
回覧板
ゆゆしき事態です。騎士団の士気に関わる憂慮案件です。
私は目の前の上官が手にしている紙を見つめました。叶うならば上官からその紙を奪ってすぐさま「とんずら」したいと思いました。しかし、上官から放たれる圧はとんでもなく強く、押し潰されそうになりました。
どうしよう。上官が目を通している紙を書いたのは私ではありませんが、いえ、それ故にダラダラと背中を冷や汗が伝いました。
怒られる。直感がガンガンと警鐘を鳴らしていますが、時すでに遅しというやつです。
「内容が随分偏っているな。団の月報なのだろう?」
「え、ええと……まあ、そんなところです」
上官の――聖竜騎士団においては実質ナンバー2であるテランス様の問いに、末席の私は頷くしかありませんでした。
本当は、月報は別に作成されます。テランス様が手にしているのは、騎士団内の有志で作成され、回覧される「会報」のようなものです。みな、これを楽しみにしていました。娯楽が少ないですからね。
何を書いても基本的には問題ありません。ただふたつ、決まっていたことがありました。ひとつは、団長は勿論、テランス様にもバレないようにすること。もうひとつは万が一にでも「敵」の手に渡らないようにすること。誓約書まで書いて、そうして初めて閲覧権限を得るのです。ちなみに、今や団内の九割以上が誓約書に署名しています。外大陸のどこかの国では指先をちょいと切って血判にするのだとか。まあ、それでも我々一同誓うのでしょうがね。
「団長の……ディオン様の今月の動静や至言についてはまあいい。だが、今月のディオン様コーデ、ディオン様から私的なお言葉をいただいた幸運な団員へのインタビュー、それにこの短編小説……とは?」
怖い。怖すぎます。実家に帰らせていただきます! と言いたくなるくらいの恐ろしい視線で射抜かれ、私は立ち竦みました。
テランス様はそんな私をしばらく睨んでいましたが、やがて溜息をつきました。そうして「検閲する」と仰ったのです。
え、と私は固まりました。てっきり没収&発禁だとばかり思い込んでいたので、これは嬉しい誤算でした。今までのように自由奔放ではないけれど、ある意味公認なのは歓迎すべきことです。何故と言って、まあ団員の大多数が積極的消極的問わず「カプ推し」ですから。略奪愛? そんな輩は袋叩きに合うでしょう。ディオン様の笑顔を守っているのはテランス様。それは、絶対的な事実です。我々はディオン様が心安らかに在られることを願っておりますから、はい。
忠義と共に我々はディオン様を崇拝しています。この世知辛い世界と国両方で、貴族階級とはいえど立場の微妙な我々を懸命に守ってくれる方を信奉せずにいられるわけがないのです。いつか必ずやお役に立ってみせる、そう笑みながらベレヌスや他の地で命を落とした者もいます。彼らの御魂がグエリゴールの慈悲に恵まれることをディオン様はひそかに祈っていたそうで、私もいつかそうなってしまったとしてもディオン様の祈りを授かればそれだけで報われます。
……とまあ、そんな具合の我々とは異なる立ち位置であるテランス様は「検閲の後に返す。他の者にこのことを伝えてもよいが、けしてディオン様には気取られぬよう。そして、引き続き「敵」の手に渡らぬように」
「は、はい!」
元々伸ばしていた背筋をさらに伸ばして私は略礼しました。そうして去っていくテランス様を見送りながら、これでよかったのかと自問自答しつつも、あのテランス様だから悪いようにはしないだろうと気楽な気持ちで任務に戻ったのでした。
後に、警備についていた同輩曰く、回覧板を読み終えたテランス様がどうしたものかと仰向いたのを不審に思ったディオン様がテランス様を覗き込んできたとのことでした。そうして、彼はもっともな理由で退出と人払いをお二方から命じられました。
それはとても美味しい光景ですが、テランス様は嘘を突き通せたでしょうか。気になるところです……。
竜の枷
「……油断したな」
ごく小さな声で一人ごち、テランスは豪奢なつくりの部屋を見渡した。けして広くはないが、圧迫感を覚えるほどではない。ただ、相容れないという感覚は残る。部屋には「大きめ」の寝台がひとつと、小机とチェア、猫足のチェストがあるばかりだった。窓から薄い光が射し込んでいる。
扉が開く。現れたのは、神皇后アナベラだった。だが、彼女ひとりではない。二名の侍女らしき女を引き連れ、彼女は部屋の扉近くに立つテランスを検分するように眺めた。一瞬、柳眉を寄せ、それから艶やかに微笑む。テランスは心底嫌だったが、礼をとった。その礼を受け、アナベラが「会話を許します」と言った。
「……私にどのような御用がおありでしょうか」
様子を窺いながら慎重に切り出したテランスに、アナベラは笑んだまま背後を見やった。
「女人に興味はおあり? 後ろの二人はそなたのことを好いています」
アナベラの横をすり抜け、女達はテランスを囲んだ。
「それは光栄ですが、お話の主旨とは関係ないのでは?」
慇懃無礼ともとれるテランスの言葉に、アナベラは小首を傾げる。計算され尽くした所作だ、とテランスはただ思った。他者を平伏せしめる力を彼女は持っている。直接言葉を交わす機会はこれまでなかったが、成程、と観察した。
「いいえ?」
それだけをアナベラは言った。何を訊いたとて彼女は嘘しか言わないだろう。そうして此方の都合が悪い言葉ばかりを信じ込ませようとするに違いない。――その手に自分の主人は何度も苦しんでいるわけだが、それはそうと、テランス自身にとって彼女はどうでもよい存在だった。主人の苦しみを思えばこの場で縊り殺したいくらいだが。
笑みを浮かべたまま、アナベラが踵を返す。テランスの左側に立つ女を彼女が見やると、女は頷いて手にしていた香を小机に置き、火をつけた。
「褒美です。受け取りなさい」
そう言ってアナベラが出ていくと速やかに扉は閉められ、外から鍵が回る音が聞こえた。彼女の嫌がらせのうちでこれは軽いほうだろうが、悪趣味極まりない。だが、主人が直接浴びる悪意に比べれば、やはりどうということもなかった。
ただ、うまいこと切り抜けなければ、主人は――恋人は負の感情を渦巻かせる一方で自らの不明を嘆くだろう。不安に思うだろうし、不甲斐ない自分に制御不能な怒りをぶつけてくるかもしれない。押し殺しているそれらを知るのはテランスにとって重要なことでもある。そして、心から望んでいることでもあった。勿論、高揚するような想いを共有するほうがずっと嬉しいが。
右に立った女が無言のまましなだれてくる。女が隠し持っていた枷を僅かな動作で叩き落とすと、テランスは左右の女の首筋を軽く手刀した。すぐさま昏倒したその呆気なさにテランスは拍子抜けしたが、どうやら彼女達は只人だったのだろう。感情を出さずにいたのが不気味ではあったが、アナベラの好みなのかもしれなかった。彼女は自身に従順な者を好んでいるようだ。
ぐにゃりと倒れている女達を抱え、寝台に寝かせる。任務を遂行できなかった彼女達がどうなるか、僅かに気にはなった。かといって、自分にできることは何もないし、積極的に救いたいかと言われれば答は「否」だ。寝台に寝かせただけでも賞賛ものだ。
さて、とテランスは思う。媚薬の類であろう香が充満するよりも先に脱出しなければ、流石に面倒なことになる。
窓を開け、下を見た。植え込みが真下にあるのは幸運といえた。しかし、ツインサイドの神皇宮はホワイトウィルム城より高みにはないが、常人が軽率に飛び降りてよい高さではなかった。竜騎士でもある自分の場合、と考えてみても、あまり得策とはいえない。
となると、壁伝いに動くしかないだろう。そう思い、窓から身を乗り出したテランスは、横を見た瞬間絶句した。
翼と尾をそよがせて、主人兼恋人が此方を見ていた。テランスが想像した通りの憮然とした表情で、彼は「遅い」と宣った。
「ディ……!」
「十も数えたら乗り込むところだった。出るぞ、テランス」
ほら、と両手を差し出してきた恋人の手をテランスは強く握った。引き寄せられ、空に飛び出る。
半顕現とはいえど軽率だと後で説教しようとか、どこか異変がないか確かめようとか、助けに来てくれてありがとうとか、そういったことはすべて後に回すことにしたテランスに、恋人が言った。
「ついでに空中散歩と洒落込むとするか」
「流石にそれは……御身をお労りください」
テランスの内心を見たかのように恋人は笑った。
「囚われの姫君の機嫌を損なうのは、賢明ではないな」
「……後で普通に散歩しようよ」
見える光景が自分にとって現実的なものになっていく。
笑いながら少しずつ高度を下げていく恋人に、テランスはそう提案したのだった。
水に沈む鳥
私は、鳥ではない。翼を持ってはいるが、別のいきものだった。
なのに、水面に映った私は、鳥のような風体をしていた。
それは、一瞬のことで。半透明の翼を広げることもできずに、水のなかに落ちた。
落ちる。落ちていく。沈む。沈んでいく。
水面に光が射し込んでいる。手のかわりに翼でその光を掴みたかったが、襤褸きれのような具合の翼は水の重みに負けた。
沈む。沈んでいく。息をするのも忘れ、ただ沈んでいく。
無理に動かしたからか、翼がもげた。鳥でもなくなった私に、光は慈悲を授けなかった。
ゆらゆらと水に揺れる光が遠のく。真暗闇がはじまる。
願いと祈りを心に隠したまま、すべてがはじまる。
「ゆっくり数えるからね、あわせて息をして。一、二、三……」
寝入り端、久方ぶりの悪夢に跳ね起きたディオンを注意深く観察しながら、テランスは彼の背を擦った。
ディオンは何も言わなかった。テランスの腕を掴み、ガタガタと震えている。過呼吸気味の状態をどうにかやり過ごすべく、呼吸に集中する彼をテランスはゆるく抱いた。
様々な意思に翻弄された末、心を半ば自ら引き裂いたディオン。生きざまに納得しても、壊れかけの心は簡単に戻るものではない。
それは、自分も同じで。テランスは、ディオンの体温を感じながら思う。どこか壊れている。彼の体温を、生を感じられなければ、動けないでいる。
多くの人から受けた慰撫と、互いの告白で心の傷はだいぶ癒された。だが、完治することはないのだろう。彼も、自分も、きっと。
それでも、前を見る。未来へと手を伸ばす。その行ないに、影の声が囁こうとも。
ふたりで多くの時を費やし、話し合った。できうる限りのすべてを曝け出した。自らの弱さも、苦しさも、すべて。
数字が百を超えた頃、少しずつディオンの呼吸が整いはじめた。震えも収まり、ディオンはテランスの腕を離した。すまない、と小声で謝る彼に、テランスは「その言葉じゃないよね?」と彼の耳元で囁いた。
「……ありがとう、テランス」
真暗闇はまだ少し怖い。そう言ったディオンの願いもあって、部屋にはランタンが置いてあった。その灯火で彼の様子を探る。現世に少しずつ戻り始める瞳。だらん、と重力に任せて下ろされた腕が、そろりとテランスの背に回された。
「もう少し、このままで。……このままが、いい」
「分かった」
ディオンの腕に力が込められる。テランスも彼を抱きしめた。彼の意を聞き届けたのではない、自分がそうしたかった。
抱きしめて、合わせた額で熱を感じて。今夜はこれ以上進まないほうがいいだろうと思う。それは、また別の機会に。
前を見る。未来が在る。
今は、すぐ近くに互いがいるという安堵に浸るときだった。
雨の日に
見慣れてしまったのか、本当に薄らいできたのかよく分からないが、包帯の巻き方が変わったことはディオンにも分かった。使う量も減った。
キエル特製の塗り薬が効いているのかもしれない。あるいは、効くと信じていることから、何かが変わっていくのかもしれなかった。
身体の傷はほぼ完治し、石化の名残だけが残った。すっかり筋力も落ちたから、鍛え直す必要があるだろう。階段昇降で息を切らしている場合ではない。そういえば、隠れ家の対岸に練兵場ができてジル殿が無双状態だとクライヴが言っていた。近々己も――。
「ディオン? 良からぬことを考えてない?」
「な、何も?」
薬を籠に詰め直していたテランスがくるりと振り返り、ディオンを笑みながら睨んだ。器用な男だ、とディオンは思ったが、咄嗟についた嘘はあまりにも稚拙で、まるで意味を成さなかった。
ぱたん、とテランスが籠の蓋を閉じる。寝台に座ったままのディオンの前で跪き、彼は「それに、今日は雨です」と言った。
「雨でも、練兵は」
「貴方は……君は、まだ駄目」
何故、とディオンが問う前に、テランスはディオンの両手を握った。ディオンを見つめながら、指先に口づけていく。
「テラ……」
「僕に閉じ込められることに、少しだけ慣れて」
雨は口実で。留まることも大切で。そして、抱えていた欲を封じ込める必要はもはやない。
ディオンは、テランスの変容に息を呑み、悟った。
少しだけ、関係がまた変わる。己が願っていた方向へ。
動き出した時計
何かの予感がして、目が覚めた。瞬間、ポーン、と耳触りの良い音が鳴った。
続けて、五回。その音の数に、朝が来たことを知る。
音の主は、寝台のすぐ傍に置かれた小型の時計。オーケストリオンの応用なのだとミドが情熱たっぷりに解説しようとしていたなと思い出し、ディオンはひっそりと笑った。「引越し祝い」と称して隠れ家の面々から贈られた品は、今日もしっかりと時を刻んでいる。
「……んんん」
ゼロ距離でまどろみの呻き声を上げるテランスの寝顔に幸福を感じ、笑みはさらに深まった。寝言で名前でも呼ばないかと思ったが、それよりも先に体が動く。
起きたら大笑いしてやろうと思うくらいに寝癖がついた髪をかき回し、耳朶に触れる。ん……?と不思議そうに寝ぼけた声色がおかしく思えた。彼が目を開くよりも先に「おはよう」と囁いて、頬に口づける。
それから待つこと、数拍。ぼんやり目を開けたテランスは、瞬時には状況を把握しきれなかったのか、目を瞬かせた。それから、にわかに気色を変えて一気に上体を起こす。寝過ごしたことに気付いたのだろう、「やってしまった……」と呟いたのもディオンには面白く、可愛く思えた。
「今日は休みと決めてあっただろう。何の問題もない」
「でも、君より後に起きるなんて」
「……私とて寝汚いほうではない。お前が早起きすぎる」
「でも……」
まだまだ食い下がる様子のテランスの腕を、ディオンは指先で撫でる。
昨夜は休日前ということもあって、遅い時間まで随分と盛り上がった。「我が家」だから、誰にも気兼ねなく愛し愛された。そうして疲れ果ててそのまま眠ってしまったディオンの身を清め、後片付けまでしたのだから、就寝は遅かったことだろう。
指を肩に移し、そのまま喉元を撫でる。再び髪をかき回したディオンに、テランスは溜息をつくと、寝転がってディオンを抱き寄せた。
下履き越しに熱が伝わる。熱を伝える。
「休みだよね」
「そうだな」
ディオンがそう返すと、テランスが笑う。足先をすり合わせ、心地よさにふたりで浸った。
「誘ったのはディオンだからね?」
「そういうことに、しておこう」
笑んだディオンが仕掛けた口づけの主導権をすぐにテランスが奪う。
そうして始まる、ふたりだけの時間。
ポン、と半刻過ぎたことを時計が知らせた。
紫陽花、そして
白を基調とし、クリーム色から青、赤、紫へ色合いを変え始めている花木が咲き誇っている。花弁ではないらしいが、どう考えてもそうとしか思えないその色彩は、無彩色の教会に彩りを添えていた。
短い雨季を迎えた旧ザンブレク皇国辺境のとある村。「クライヴ達の隠れ家」へ向かう途中、ディオンとテランスはこの村を訪れた。もう何度訪れたか数えてはいない。訪れる理由は単純で、二人が拠点としている地から隠れ家へ向かう途中にこの村があるからだ。辺境故に「大混乱」の影響も少なく、倹しくも人々は日々を過ごしている。ベアラーであった者の姿はなかったが、「元々、特に必要ではなかったからいなかったのです」とは村長の言だった。
不思議だとは思ったが、村の有り様は隠れ家にどこか似ていた。クリスタルが消えたのは流石に驚きましたが、と村長は続けて言っていた。何とかなるものですよ、とさらに続けたことは覚えている。
初めて訪れたときには怪しげな旅人として警戒され、村長に通達が行ったらしい。正しい判断だ、とディオンは村民の行動を後に賞賛した。村長も信が置ける者として判じたディオンは、自らの素性をあっさりと明かした。テランスはディオンの言動に冷や汗をかく羽目になったが、後にディオンを問いただすと、「演習地のほど近くに村があると把握していたではないか」と彼は事もなげに言った。確かに、確かにそうだけれど、と食い下がるテランスをディオンは目を細めて笑った。素性を隠せば、村長は我らを害しただろうと言って、用意された旅籠の窓の外を眺めやったのだった。
今ではすっかり村民とも顔馴染みだ。ただし、彼らはディオンの素性は知らない。高貴な身分だとは思っているらしいが、遠巻きに見たりはせずに挨拶をすることもあった。
そうして、今日。空は曇天だが、雨の匂いはまだ遠い。目の前の花を愛でるには丁度良いのかもしれなかった。
二人は、村の小さな教会を初めて訪れた。
「こんにちは、グエリゴールの御庭へようこそ」
教会の柵越しに花を眺めていた二人に声をかけたのは、聖職者らしき男だった。村人に対して交わす挨拶とも変わらないその所作に、二人も礼をとった。それを認め、男はにっこりと笑んだ。
二人は視線を交わした。テランスがひとつ頷き、男に話しかける。
「突然すみません。あまりにも見事なものでしたから、つい見入ってしまいました。……この紫陽花は?」
テランスの問いに、男が微笑む。
「教会に紫陽花というのは少し驚かれましたか? 先代の好みでしてね、仰る通り、見事なまでに咲くようになったのでそのままにしております。今ではすっかりこの季節の風物詩となりました。礼拝も兼ねて見物に来る人もいるくらいなのですよ」
そうなのですか、と返したテランスの横でディオンは紫陽花を見回した。淡い色合いに、様々な形の花。教会の柵などこの季節は無意味なのではと思うほどに咲く紫陽花を、ディオンは好ましく思った。
グエリゴールの教えは確かに此処にも息づいている。形式ばったものではなく、人々の安寧の源として。「神」という存在が絶えても、他教のそれ――アルテマ――にグエリゴールが巻き込まれるような格好で既に消えていたとしても、人々の祈りは終わらない。信仰の拠り所であるこの教会が「生きている」のは僥倖といえた。
もっとも、他者に強いられた末に祈りを捧げても、グエリゴールはそれを無視するだろう。あるいは、歪な祈りを見逃すことでその者を許しを与えているのかもしれない。……かつては女神の教えを素直に信じ込んでいたはずなのに、今ではこんなふうに考えているのはディオンには不思議に思えた。信仰を捨てたわけではないが、信じなくてもよいものになったというだけのことかもしれなかった。
男と話し込んでいるテランスを見る。彼は彼で、グエリゴールに対して何か含みがあるらしい。それは、若い頃に己が彼を庇って落命しかけたことに起因するようだが、追求しようとするたびに彼は困ったように笑ってごまかすのだった。その笑みが癪に障るので、最近は聞かないようにしている。いつか、絶対聞き出すが。
白、これから色づくだろう青、赤、紫。そして、葉の緑。不思議と調和したそのさまを、ディオンは眺めた。
「本当は、紫陽花は教会には似つかわしくないのだと先代は言っていました」
「何故? ……飛竜草のように毒を持つのか?」
その言葉に反応したのはディオンだった。男は首肯し、それもありますが、と言った。
「もっと単純なことです。昔から語り継がれてきた花言葉が、教義と少し合わないのですね。それでも先代は自分の嗜好を優先させてしまったわけで、罪深いと思いつつも笑ってしまうのですが」
紫陽花の花言葉は、と男が諳んじる。
移り気。無常。浮気。冷淡。神秘的。辛抱強さ。
「確かにグエリゴールとは少し相容れない言葉もあるが……。しかし、その前にそれほど多くの花言葉があるのか?」
「ええ。色や種類によって異なりますからね。ああ、でも、面白くもあるのです」
「面白い?」
ディオンに続いて訊き返したテランスにも男は頷いた。すっかり話し慣れているのだろうと思うその声音は、やはり聖職者に相応しくよく通る声だった。
そうして、二人は知る。紫陽花の「面白い真実」を。
「だって、それ確かめて論文にしたの、あたしだもん」
数日後、隠れ家の対岸の桟橋で待ち受けていたミドは、問い詰めてきた二人にあっさりと言った。えい、と掛け声と同時にオボルスの小舟に乗り込む。
「紫陽花っていうより、色の全般だけどさ。面白いよね、てっきり真っ黒になるって思うじゃない? 真逆なんだよね。赤と青と、あと緑。ぜーんぶ入れると?」
漕ぐか?と冗談めいてディオンに櫂を渡そうとしたオボルスをテランスが遮った。その様子を横目で認めながら、ディオンはミドに答えた。
「……白になる、と」
「そう! 青と赤と紫の紫陽花に、緑の葉っぱ。そして、一番多いのは白い花だったんだよね? その教会、センスあるよね。今度行ってみようかな!」
騒々しいな、とオボルスが愚痴る。それを綺麗に無視し、ミドは笑った。
ディオンはテランスと顔を見合わせた。センスとは、とディオンが問うと、ミドは「だって、ザンブレクだよ?」と言う。
「教会に、色々な色と形の紫陽花。ただの白じゃなくて、飛竜草でもなくて、カチコチのザンブレクじゃ珍しかったんじゃないかな。そして、白は光の色」
にやりと笑んだミドに指をさされ、ディオンは返答に窮した。隣に座ったテランスが、ディオンの背をごく軽く叩いた。
「ディオン・ルサージュ、その人の色ですね」
「テランス!」
しれっと答えたテランスに、頬が熱くなるのを覚えながらディオンは怒鳴った。なんだか、無性に恥ずかしかった。
「いいじゃん、今も好かれてるんだから」
「そういうことではない……。おそらく、きっと、偶然だ」
「ミドに賛成です。私も合っていると思いますよ」
まあ、俺も一票入れとくか。テランスのみならず、オボルスも話に合いの手を入れてくる。
――ああ、これだから。
胡乱な目つきをつくり、ディオンはそれぞれに視線を置いた。ミド、オボルス、最後にテランス。睨み据えたままで口の端を上げると、ディオンは言った。
「白の紫陽花の花言葉も聞いた。私にその花言葉は合わないが、私にその花を贈る者がいるならば、その者が花言葉に相応しい」
「お、それはつまり?」
ミドが身を乗り出して小舟が僅かに揺れる。ちょっと、と焦り声で呼びかけるテランスには微笑んでみせて、ディオンは宣った。
「寛容、そして一途な愛情だそうだ」
「……舟、揺れているように見えるけど?」
「まったく、何をしているんだろうね。ミドを迎えに出させたのは失敗だったかなあ」
「ブラックソーン達がキレて酒盛りに走る前には着くといいんだが」
「流石にそれはない……とも言い切れないわね」
「だろう?」
クライヴとジルとジョシュアが待つ桟橋にディオン達が辿り着くまで、あと四半刻。
遅い!とブラックソーンとゾルターンに怒鳴りつけられるまで、あと半刻。
――そして、世界に一対だけの指輪と出会うまで、あと一刻。