我が心の君

 ゆっくり、なのだそうだ。
 それを聞いたとき、私は不思議な心持ちになった。逆のはずだろう、と。
 だが、今。
 そう、今このとき。
 時の流れが「違う」ことを意識するときが来た。

「少し、寒いね」
 リラの花が咲き終わり、初夏。窓から見える空は青々としていた。このままだと、昼下がりには汗ばむほどの陽気になるのではないか。
 それなのに。
 背に声がかかり、私は振り向いた。小首を傾げてみせると、彼は伏せったままで頷く。
「寒いか」
「うん」
 そうっと伸ばされた手を両手で包み込む。武人として長らく在った彼も、穏やかになりつつある世で剣を置いた。それからは少しやわらかくなった手を、ゆるりと握る。
 彼の手はとても冷えていた。どれ、と呟き、そのまま彼の額に己のそれを当てる。ひどく、熱い。
「……熱がまた出てきたな。少し待て、熱冷ましを持って――」
「要らないよ」
 私の言葉に被せて言った彼は、そのまま口づけてきた。そして、もう一度「ディオン以外、なんにもいらない」と呟く。
 彼の貴重な「わがまま」に、私は己の頬が緩むのを隠せなかった。とはいえ、病人の意をそのまま聞くわけにもいかない。私は、彼に問いかけた。
「私がほしいか?」
「……もっとほしがればよかったね。いや、僕は……私は、充分なほどに貴方から色々な愛をいただいた」
 急に言葉遣いが変わった彼の額を軽く撫でる。彼の意識はしっかりしているように思えて、もはやそうではなかった。記憶はあるらしい。何を話したかも。だが、「今」が揺らぎ始めているのだと彼が言ったのは、ちょうど一年前のこと。
 私達もすっかりよい年になったな、と軽口を叩いた私に、彼がしんみりと言ったのが忘れられない。
 ああ、終わるのか。みなまでは言わなかった彼を見つめ、私はあのとき僅かに落涙した。まさか、私が置いていかれるほうに回るとは。そんな驚きもあったが、ただただ寂しい気持ちが込み上げた。悲しいと思うより、寂しかった。
 確かに、歳に不足はない。長寿の域に差し掛かっているといってもよいだろう。周囲が驚くほど、彼も私も流行り病に罹ることもなく、頑健だった。特に、私は。
 見た目も少しずつ変わって来たのだ。十年ほど前だったろうか、何かの折で「隠れ家」へ赴いたとき、くるしみを抱えてやって来たのだという少女に「同い年?」と驚かれたことがある。……私は四十半ば、彼は年相応の容貌をしていたからそう見えたのだろう。
 これは、クライヴも、ジョシュアも、ジル殿もそうだった。他のみなが世を去っても、かつてのドミナント達の時はゆるやかなようだった。不思議だわ、と言って去ったタルヤの言葉が忘れられない。不思議だった。そして、私にとっては残酷だった。
 テランスの意思で、キエルの孫弟子から治療薬を融通してもらうのを止めたのは数月前。以降、彼は独りで死の道行きを歩んでいる。
 寂しさと悔しさに噛みしめた私の唇にやわらかくてかさついた指先が触れた。心を見透かすかのように、彼は「君がいるから、僕は落ち着いていられる」と嬉しそうに言ったのだった。
 雪が降り、未だ陽は伸びずに本当に寒かった頃。それからは、ひたひたと迫る「その日」を迎えるまでの穏やかな日々。
「その愛の数々を語る時間をほしくはないか?」
 私が冗談交じりの声色で言ってみせると、彼は不思議そうな表情で頷いた。
「だったら、やはり熱冷ましだな」
「やりようがずるいよ、ディオン」
 彼の口調が戻り、内心ほっとした私はその場で熱冷ましを用意した。分量はすっかり覚えてしまったから、すぐにできあがったそれを茶器に移す。身を起こして飲む……という一連の流れも彼には疲れるだけだろうと思ったので、サイドテーブルに一旦薬を置き、クッションをひとつ寝台へと放った。
「ディオン?」
 問いかける彼に微笑み、クッションを使ってほんの少し彼の体を起こす。そうしないと、飲ませても戻してしまうからだ。
「なんだか、やっぱり不思議な感じだ……」
「本当にな。私だってまさか「こうなる」とは思わなかったが……、よいか?」
「ん」
 彼が口を僅かに開けたところを確認してから、薬を己の口に含む。そうして口移しで薬を飲ませた。これなら、彼は薬をわりと大人しめに飲むのである。
 辛いだろうに、彼は身を片側へ移動させた。一緒に、ということなのだろう。緩やかで速い日々で昼前からごろごろするのも悪くはない。上履きと上衣を脱いでから寝台へ入り、そっと彼を抱きしめた。
 私達はひそひそと昔語りをする。苦しい思い出も、慕わしい思い出も、辛かったことも、嬉しかったことも。思えば、人生のほぼすべてを私達は共にしてきた。永久の別離になる日は延びに延び、こうして今が在る。
 永久の別れを信じたあの夜。涙。
 永久の別れとそこから続く絆を信じる今。涙と笑み。
 熱冷ましが効いた彼と私は、ゆるゆると生涯のすべてを行きつ戻りつ心のままに語った。


 数日後。
『我が心の君。……ぼくの翼』
 彼から聞いた最後の言葉だった。それから、彼は唇の動きだけで愛を私に告げた。
 額を当てて口づける。少しずつ、彼が冷えていくのをそうして見届けた。


「ちゃんと泣いたかい?」
 数か月後、ポートイゾルデ。
 私より若々しい姿で出迎えたジョシュアに、私は頷いた。
「食べているか?」
 此方はクライヴ。それなりに、と答えても早々信じはしないようで、「義兄」はじろりと私を見つめてから安堵の溜息をついた。
「喧嘩はしたの?」
 ジル殿の言葉にも、私は頷く。
 それぞれが随分と気にかけていてくれたことが分かる。有難いことだった。


 寂しい。傍にいないことが、辛い。やはり、そうも思うけれども。
 いつか私にも、その日が来る。
 そうしたら、彼は門の入口で槍を持って待っているだろう。

 門を潜り、私は彼から槍を受け取る。
 共に走り出し、とぶ。竜となって、彼を背に乗せて。

 そうして――。

あとがき

思いついて(以下略)シリーズな「EX」ですが、この話は思いついて意気揚々?と短時間で書き上げたのですが、お読みいただいた方々を巻き込みつつ、自分も涙した…という特異な経緯を持つ話です。なんというか、ただ悲しい話ではないけれどもすごい幸せなんだけれどもでもやっぱりね…と。ドミナントの方々が長生きなのは「なんとなくそれもありなのでは」という思いつき(これもか)ですが、書けてよかったです。でも読み返すとノックアウト気味に落ち込む…でもこんな世界線で終えてほしい!という願望です。

2025.11.15追記:作業中に読み返してまた泣いてます…。

2025.05.20 / 2025.06.07