あなたの瞳に映るもの

「少し休憩にしましょう」
 手合わせというには些か――だいぶ――手心を加えられていることを苦々しく思っていたディオンは、テランスの言葉に動きを止めた。
 は、と息をつき、乱れてしまった呼吸を整えようとするが、なかなかうまくはいかない。前と同じように、と感覚を呼び起こそうとしても、体は言うことをまったく聞き入れてくれなかった。
 完全になまってしまった、そう思う。否、「ドミナントだったから」以前のような動きができただけで、魔法も召喚獣も消えてしまえば己は何者でもない只人なのかもしれなかった。
 それが悪いというわけではない。ドミナントもベアラーも、いまや「人」となった。神秘の力を使う「道具」ではなく、自我を持つ「人」としてこれからは生きる。けして容易いことではないが、もう後戻りはできない。時は次の針を指し、世界は姿を変えた。望んだ者にとっても、望まなかった者にとっても。
 時が次の針を指すのを、己は望んだ。強く。だが、時を進めた世界へ己が在るとは思えなかった。否、思わなかった。
「そう、だな」
 連想の末に表出した思考にも苦く思いながら、ディオンはテランスが差し出した手巾を受け取った。ここでやせ我慢をして手合わせを強要したとしても、彼には己の状態などお見通しだろう。そう考えると、隠すつもりにもならない。
「前回より格段に動きが良くなりました。無駄な力みもなく、迷いもない。ただ、もう少し持久力をつけたほうが良さそうですね」
「点が甘いな、教官殿は」
 テランスの評価と助言は的確だったが、ディオンは彼の言に納得できなかった。他の者相手であれば、テランスはもっと厳しい評価を下すはずだ。親衛兵長として部下に相対していたときもそうだったし、ドリスとコールに請われて石の剣を指導することになった今も変わらない。かつて「巡り巡って、すべては貴方をお守りするためです」などと真顔で告げられたりもしたが、その言葉に嘘偽りはないとしてもそればかりではないだろう。心根の誠実さが為せる技で、それはテランスが持ちうる多くの美徳のうちのひとつだとディオンは考えていた。
 だが、その厳しさをテランスはディオンに向けようとはしない。甘やかすのとは違うが、どこかで一線を引いている。
「甘くなどありません」
 ディオンの軽口をわざと真正面から受け取ったか、テランスは肩を竦めた。
「私は事実をお伝えしているだけです。そして、物事には段階というものがある……一足飛びに駆け上がっても息切れするのは自明の理。次の段へ歩を進めるには時間も必要です。……焦っておいでですか?」
 付け加えられた問いに、ディオンは首を横に振った。焦燥の時は過ぎ、茫洋としていた己が世界は徐々にその輪郭を現していた。何故。どうして。様々な問いは未だ胸の内に渦巻くけれども、それでも前を向きたいと願っている。
「そのお答えに安堵いたしました。しかし付け加えるならば、ディオン様。貴方はご自身の評価が低すぎるのです。大方、ドミナントだったのだからと考えておいでのようですが、それだけでは人の上に立てようもない。勿論、御身に宿っていたバハムートは貴方を形作る上では欠けてはならなかったでしょう。ですが、人として多大な努力を積み重ねてこられたことを、みなは、私は存じております。そして、その努力こそが貴方を貴方たらしめるものなのだと。そもそも」
「……テランス、声が少し大き」
 滔々と話すテランスを遮ろうとしたディオンだったが、じろりと一瞥されてしまえばそれ以上は何も言えなかった。呼称を戻せ、口調も大仰だと付け加える余地もない。
「そもそもですね、これを言ってしまえば身も蓋もないと思われるでしょうからできれば言いたくはないのですが、何度も幽世から舞い戻ってこられた御身がゆえに、二度あることは三度あるとか、流石我が君私は何も心配していなかったとか、それが当たり前だとか、そういうふうに言い腐す輩もいるのです!」
「まあ、中にはいるであろうな」
 ぎろり。ディオンの相槌に、テランスの睨みがきつくなる。少し黙っててください、テランスはそう言うと、押し殺した声色で続けた。
「あれは、貴方が「こちら」に戻ってこられたのは、当たり前でもなんでもない。貴方自身がもがいた末に得られた奇跡だというのに。……いえ、奇跡などという単語ひとつでは到底言い表せはしないのに」
 これまでの諸々を思い出してしまったのだろうか、生死の境を彷徨った己よりも余程辛そうにしているとディオンはテランスの声色に思う。そうさせてしまったことには申し訳なさが先に立つが、同時に別の感情も抱いていた。――仄暗い喜びという感情を。
「テランス」
 とはいえ、これ以上言い募らせるのはテランスには毒だ。迷路のような思考に入り込もうとするテランスをディオンは呼び止めた。
「話が随分と逸れている」
 恋人の言動に自然と緩みそうな頬を引き締めてディオンがいつもの角度で見上げると、我に返ったらしいテランスは詰めていた一歩を引いた。
「……失礼をいたしました」
「よい。其方が言う通り一段ずつを確実に上っていくとしよう。時間は惜しいが、回り道をする必要もときにはあるということであろう?」
「仰る通りです。……ところで、ディオン。いえ、ディオン様」
 ディオンが繰り出した回答に満足したように頷いたテランスだったが、さらに一歩引いた。ほんの少し前の射竦めるようなまなざしはどこへやら、外した視線をうろうろと彷徨わせる。
 口調が一瞬素に戻ったのを不思議に感じ、ディオンは引かれた分の歩を詰めた。すると、また一歩テランスが引く。
 そうすること、数歩。
「どうした、テランス? 何か問題事でも?」
 無言のまま引き続けるテランスに、ディオンは問うた。知らず、詰問するような響きになってしまったが、仕方がない。
「いや、あのですね。ええと……」
 口元を手で覆い、テランスが仰向く。ディオンはその視線を追ったが、特に何があるわけでもない。すっきりとした青空が広がっているだけだ。
 この僅かな間に何かあっただろうか? ざっと振り返ってみても、特に思い当たるふしはない。この空のように。
「テランス?」
 二歩を詰めて再度呼ぶと、そろりとテランスはディオンに視線を戻した。そうやっていつもの角度でこちらを見る彼だったが、その耳が何故かほのかに赤く染まっている。
 何かしただろうか。いや、何も?
「……ディオン、様。恐れながら申し上げますと」
 やがて、何度か大きく深呼吸をした後にテランスが切り出した。覚悟――いったい何の覚悟だろうか――を決めたのか、姿勢を正した彼にあわせてディオンも居住まいを正す。
 さて、何を言われるだろうか。
 にわかに身構えたディオンに、テランスは口を開いた。
「距離が、近いです」
「……は?」
 告げられた言葉は想定外で、ディオンは思わず声を上げた。間抜けな響きだと頭の片隅でそう思ったが、そんな些事に囚われている場合ではない。
 この男は何を言い出すのだ?
「距離が?」
「……はい。若干、いや、かなり」
 テランスの言葉に促され、己と彼の「距離」を確かめる。その距離は手を伸ばせば肩に触れるか触れないか、頬にまでは届かない。そも、「いつもの角度」で見上げているのだから、それほど距離が近いわけではないはずだが――。
「ディオン様、ここは?」
 考えのままに思わず手を伸ばしかけた手を、ディオンは引っ込めた。
「石の剣の練兵場だ」
 即答するディオンに、テランスが小さく頷く。
「では、今は?」
「手合わせをして、休憩をとっていた。話の流れで、お前……其方に説教をされた」
 これにも即答する。呼称を直したのは口調を変えないテランスへの意趣返しだったのだが、彼は気付かないようだった。いや、気付かぬふりで敢えて流したのだろう。己に向けられた視線が一瞬たじろいだのをディオンは見逃さなかった。
「説教とは心外ですが、概ねそうです。……衆目を集めていることにお気付きですか?」
 咳払いをして言ったテランスが視線を周囲に流した。再びその視線を追うと、確かに何名かの隊員がこちらを見ている。
 彼らの多くはディオンが目を合わせようとするよりも先に明後日の方向を向いてしまった。――成程、「距離が近い」とはそういうことか。
「先に歩を詰めたのは其方であろう」
 苦笑しながらディオンが一歩を引いてみせると、テランスは「それは、そうですが」と呟いた。もごもごとその後も「角度が」「その表情が」「反則です」などと何言か続けていたが、よく聞き取れなかったのでそのままにすることにした。
 それよりも。
「ルサージュ卿、テランス殿」
 流した視線の先で唯一目が合った人物が歩み寄ってくる。落ち着いた声色は臆するところがなく、それでいて高圧的でもない。凛とした佇まいとやわらかな雰囲気が同居する稀有な存在は二人の傍まで来ると、略礼をとった。
「ドリス隊長」
「休憩中、失礼をいたします。ルサージュ卿、ご相談したいことがあるのですが」
 石の剣を率いるドリスは、テランスではなくディオンに向き直った。てっきり、練兵を依頼しているテランスに用があるのだろうとディオンは思っていたが、そうではないらしい。「相談?」とディオンが問い返すとドリスは「ええ」と頷き、そこでようやくテランスにも視線を投げた。
「……では、私はここで」
 察したテランスがディオンに礼をとり、その場を辞す。ディオンとドリスはそれをしばし見送ったが、テランスが練兵場を出たのを見計らってドリスが口を開いた。
「実を申しますと、迷ってはいます。殿下……いえ、ルサージュ卿にこのような相談をしてよいものかと」
「私でよければ、話を聞くが?」
 本題を切り出す前に逡巡する様子をみせたドリスに、ディオンは先を促した。こういった彼女の姿はおそらく珍しいともいえるのだろうが、ディオンには彼女とそこまでの接点はない。
「それでは、お言葉に甘えて。ルサージュ卿と手合わせを願う者がいるのですが、よろしいでしょうか?」
 ドリスは吹っ切ったように一呼吸を置くと、相談の内容を明かした。
「手合わせ? 私と? ……テランスとではなく?」
 彼女の言葉をディオンは再び繰り返す。想定外だった。
 持久力に欠けるほかは格段に進歩している――。テランスはああ言っていたが、それでも己の状態は往時からすれば埒外だ。ここの隊員達ともこちらから頼み込んで打ち合ったこと数度だが、完勝したことは未だにない。相談事を果たすには、どうあっても力不足だった。
 しかし、ディオンの問い返しにドリスは頷いてみせた。何らかの思惑があるのだろうか、と訝しむようなまなざしをディオンが投げれば、ドリスはそれにも頷いた。
 ――成程?
「……役目を果たせるか自信はないが、請け負うとしよう」
 そう言ったディオンに、ドリスがどこかほっとしたような表情を見せる。そうして、彼女はいつの間にか背後に控えていた者に視線をやった。


「ウィフィと申します」
「ディオン・ルサージュだ」
 石の剣がとる礼の後に名乗った男に、ディオンもまた己の名を告げた。
 男は、青年というよりはどちらかというと未だ少年の域を出ていないように見えた。名乗りの後に固く引き結んだ口元は幼く、手足ばかりがひょろりと長い。石の剣は見習いも抱えているというから、ウィフィもそのなかの一人なのだろうと当たりをつけた。
 念のために訓練用の革鎧をつけ、最後に手袋をはめる。聖竜騎士の武装をすることも考えたが、身軽さを優先させた。
 手にした槍だけが肌に馴染み深い。捜索のさなか、扱い主とはまるで異なる場所で発見されたという己が得物は、隠れ家の鍛冶師によってその鋭さを増した。
 おそらく、とディオンは思う。これでなければ、今は思うように戦えないだろう。
 その場で数度軽く跳躍し、槍を両手に持つ。
「其方は何を扱う?」
「双剣を」
 ディオンが問うと、ウィフィは腰の両脇に携えていた短剣を鞘から抜いた。僅かに湾曲した刀身は左右で幅が違う。ダルメキア風の武器であることを考えると、ウィフィはその生まれなのかもしれなかった。
「では」
 二人を練兵場に置き、ドリスがその場を離れる。それ以上の合図は特になかった。
 戦場に進軍の喇叭は鳴り響けども、個々の争いに鳴る鈴はない。それと同じことだ。
 ウィフィは両の剣をくるりと回すと、柄を持ち直した。低く身構え、眼光鋭くこちらを睨めつけるそのさまは、相手を圧するには足りうるとディオンは見定めた。さながら獰猛な獣が解き放たれる寸前のようでもあったが、さて、どのように仕掛けてくるだろうか。
 いずれにせよ、長引けば長引くほど己には不利になる。テランスの言は確かで、それを考慮すれば一気呵成の要があるだろう。
 ざり、とウィフィの足元の砂が鳴った。
 拍を置かずして突進してきたウィフィが一撃を繰り出す。槍穂で薙ぎ払いざまにディオンはウィフィの胴元を牽制すると、数歩を跳んで下がる。瞬間、短剣は虚空を切り、ウィフィはたたらを踏んだ。体勢を崩したことで生まれた隙を逃さず、ウィフィが足を踏み変えたその一瞬を狙ってディオンは彼の背後に跳んだ。
 間合いは取ったままに、利き手を軸にして突く。流石にそれは躱されたが、続けざまに角度を変えて薙ぐと、避けきれなかったウィフィは短剣でディオンの攻撃を受け止めた。
 重量のある金属音が響く。
 細い体躯のどこにそんな力を潜めているのか、ウィフィは槍を跳ね除けた。ヒュン、という風切り音とともに双剣がディオンを襲う。上体を反らした反動を利用してディオンは跳ぼうとしたが、その前にウィフィは視界から姿を消した。しかし、隠す気もないらしい殺気を辿れば、ウィフィはかなりの距離を横に取っていた。
 好機、とディオンは思った。この距離であれば跳んで詰めたほうが早い。判断するよりも先に体が動き、跳躍する。双剣を交差させて防御の構えをウィフィは見せたが、ディオンは片方の短剣をその槍でもって打ち払った。ウィフィの背後彼方に剣が飛ぶ。
 失った得物を視線で追いはしたが、しかしウィフィはそれを取りには行かなかった。近付いたディオンに逆手で短剣を振るい、素早くその身を引く。今度はディオンの槍穂が虚空を薙いだ。
 ディオンが考えていた以上にウィフィは敏捷だった。振り回されている感はないが、厄介な相手であるのは間違いない。これまでと同じようにただ跳ぶだけではウィフィは崩せないだろう。
 それに、と思う。彼はおそらく――。
 ディオンの思考を探ったか、ウィフィが再び突進する。片手のみで仕掛けてくる攻撃を避けながらディオンは左手首を返し、手の内に鉄菱を出した。
 その刹那。
「死ね、ディオン・ルサージュ!」
 ウィフィはそう叫ぶと、短剣を大きく振りかぶった。戦場で慣れ親しんだ殺気などではない、彼が押し出しているのは紛れもない「殺意」だった。相手を――ディオン・ルサージュという存在を――言葉通り屠ろうとしている。
 ディオンは舌打ちをすると、手にしていた鉄菱をウィフィに向かって投げつけた。
 ウィフィが一瞬怯む。その間隙に、ディオンは跳んだ。


「そこまで」
 ディオンがウィフィの首元に槍の穂先を突きつけるのと、ドリスが制止の声を上げるのはほぼ同時だった。
「――」
 息を切らしたウィフィが呆然とした様子で槍穂を見やる。そのまま視線は上がっていき、やがて彼はディオンを見上げた。
 忌々しげに睨んでくるウィフィから、ディオンは槍を退かなかった。今動くのは危険で、少なくともドリスがウィフィを抑えるまでは必要な措置と判断する。
 それを感じ取ったのか、ドリスはディオンに頷いてみせ、ウィフィに自分の剣を向けた。
「隊長!?」
 剣を向けられたウィフィが「信じられない」といった風情で叫ぶ。俺は、こいつを。そんな言葉が零れ落ちていくのをディオンは聞いた。
「なんでですか! 隊長が剣を向けるべきなのは、俺じゃない! こいつだ!」
 ウィフィは叫び、手にしたままだった短剣でディオンを指した。
「何故、そう考える?」
 剣の切っ先をドリスはゆっくりと動かすと、ウィフィの短剣を撥ねた。ぐ、と呻くウィフィに、そうして問う。
「――何故? だって、こいつは罪を犯したんでしょう! 皆、言ってる!」
「皆、とは?」
「皆は皆だ! イーストプールだって、ロストウィングだって、ダリミルだって、そう思ってるはずだ! クリスタル自治領の生き残りだって、きっと!」
 違いますか! ウィフィは吐き捨てるように言ったが、ドリスは表情も変えずに問いを重ねた。
「実際に聞いたのか? 「皆」に」
「……それ、は。でも!」
 ウィフィの反駁は続かなかった。ドリスに気圧され、口を噤む。
 二人のやり取りをディオンはただ黙して眺めた。何かを言うことは許されないと思ったし、聞くことこそ己に与えられた「時」なのだろうと感じた。
 ウィフィの言葉は正しい。
 国の繁栄を願って、民が安寧でいられることを願って、父の御心が僅かにでも此方に向くことを願って、空に翼を広げた。それが己にできる唯一と考えて。
 しかし、それで良かったのだろうか。それは正しい在り方だったのだろうか。抱いた疑問から目を背け、捉えていたはずの現実には何もせず、狭い世界の只中で漫然としていなかったか。守るべきもの、己がすべきことを間違えていなかったか。
 繰り出した問いへの答は、心の内の天秤を揺らした末に片方へ傾いた。――己は、間違っていた。正しい在り方ではなかった。分かりきったことだったが、すぐに天秤が傾かなかったのは己のなかの何かが重石となっていたためだった。
 しかし、やがてその天秤は激しい音を立てて片方へ傾いた。もう揺らぐこともない。私心で槍を向け、激情のままにそれを投げた。光を、放った。そうした末に、天秤は。
 数多の灯火が川に流れていくのを見た。ひとつひとつのかそけき光は川面を照らし、それらは光の帯となって己の目に映った。現世から離れた、己が滅した魂達。だが、目をこらせば帯はやはり光の粒。光はひとつふたつ消えていき、後には闇ばかりが残る。
 光持つ魂達への罪は、己が身ひとつで贖えようもなかった。それでも、立ち止まるわけにはいかないとそう思った。無力さを嘆くことも、すべてから逃れることも、許されるはずもなかったし許されたいとは思わなかった。犯した過ちは、そういったたぐいのものではなかったが故に。
 その果てに別離を望み、叶えられた。望まれた帰還を、拒んだ。もしかすると、それらも罪なのかもしれない。贖罪を願った心も、こうして生き延びているという事実も、また。
 ……けれども。
「たとえ、多くの声があったとして。それは、お前が彼を弑する正当な理由にはならない」
 言葉を返せないウィフィに「そして」とドリスは続ける。
「たとえ、義憤に駆られた行動だとしても。――否、それだからこそ私刑は許されない」
 そこまで話すと、ドリスはディオンを見やった。彼女の合図に、ディオンは槍をウィフィから退く。
「じゃあ、誰が裁くんですか。シドも、隊長も、そのほかのお偉方も……皆、何もしない! 誰もこいつを殺さない!」
 ウィフィはドリスからディオンに視線を転じた。侮蔑と憎悪の色濃いまなざしの、その力の源は何だろうか。ディオンは考える。ウィフィ自身に起きたことか。何らかの伝聞か。他者への共感か。おそらくは、伝え聞いたことを自らの内で咀嚼し、消化した末の正義感なのだろう。ドリスもそう感じ取っているから、ウィフィの言葉を肯定しないのだ。
「だから、腑抜けの連中どものかわりに俺がこいつを殺すんだ! 皆のために!」
 喚くウィフィに、ドリスが首を横に振る。
「それはお前の役目ではない」
「だったら、誰が! ……ああ、そうだ。いい考えがある、ディオン・ルサージュ」
 此方を睨むウィフィのまなざしが昏くなった。自身に酔いしれる者の目だ、そう思ったディオンは、ウィフィが次に放つだろう言葉を予想した。誰も手を下さないのなら、自分が。自分ができないのなら、そのときは。
「死ねよ、この場で。今すぐ。その槍で自分の心臓を突け! それでおしまいだ!」
 ――やはり。
 予想通りの言葉に、ディオンはウィフィを見据えた。
「断る」
「あんたに拒否権なんかない!」
「私……、余が己の命を絶ったとて」
 ウィフィの言葉を無視し、ディオンは彼に語りかけた。真意が伝わるとは思っていないが、己の意を表わしたいと思った。
 誰のために? 内なる声は、問いかける。
 己自身のために。その声に、迷いもなく答える。……そして。
 背に感じる唯一の視線に思う。
「何かが戻るわけでもない。手にかけたもの、終わらせたもの、打ち壊したもの……そうした罪咎が消えるわけでもなく、終いなどにもならぬ」
 時は次の針を指し、世界は姿を変えた。だが、それでも世界は続いていく。昨日に続く今日、今日に続く明日、明日に続く未来――続くと信じたい。
「余が為した罪咎は、余だけが背負う。死をもって償わず、命の限りに尽くすと、そう決めた」
 いつか、誰かが。たとえば、世界が己を裁くことになったとしても。
「……そんなのは、あんたの自己満足だ!」
 そう言ったウィフィに、ディオンは笑んだ。言われずとも、と頷く。
「分かっている。だが、「人として生きる」ために「己らしく」在りたいと願う心を無視したくはない。けして」
 ドミナントとしてではなく、道具としてではなく、一個の人として。
 ――これからの未来を、歩んでいくために。

§  §

 目を眇めると、ベンヌ湖に佇む隠れ家――空の文明の残骸――が見えた。陽が傾いたこともあって、湖面も隠れ家も優しい色合いに染まっている。
 テランスを伴って対岸の練兵場を出たディオンは、桟橋へ向かった。
 一歩を踏むごとに、足元の石砂が鳴る。他に音はない。二人とも無言のまま、黙々と足を動かした。
 だが。
「ディオン」
 桟橋がある左へ曲がろうとしたディオンを、後ろを歩いていたテランスが呼び止める。敬称なしで呼ばう声色のその硬さに、ディオンはゆっくりと振り向いた。
 何、とは訊かなかった。
「少し、寄り道をしようか」
 テランスは微笑むと、右を指した。そうしてディオンが頷くのを待ち、歩き出す。
 湖畔の小道を進む。足音が響くばかりで、他に音はない。何を言うでもなく、そして何かを聞くでもなかった。ただ、二人で歩く。
 やがて、視界が開けた。
 湖に面して転がる巨岩に登り、並んで座る。偶然触れた手をそのままにしてテランスが寝転がったので、ディオンもまた引っ張られるように岩の上に寝転がる羽目になった。
 陽光を受けた岩は未だ温かく、心地よい。空に転じた視界に鳥が飛んでいった。
「ディオンには……」
 しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはテランスだった。
「うん?」
 既視感を覚えながら、ディオンは頭を傾けた。テランスが体ごとディオンのほうへ向き直り、手指を絡める。
 絡めた指先にディオンが少しばかり力を込めると、二人の距離はなくなった。
「ディオンには、どんな景色が映っているんだろうね」
 口づけの後でテランスはそう呟いた。言葉は問いの形をしていたが、彼は答を求めていないようにディオンには聞こえた。自身に言い聞かせるような声色は、若干の諦めを滲ませている。一方で、ごく間近なまなざしには熱を感じさせた。
 ふ、とディオンは笑った。
「テランスが映っている」
 笑いながらディオンがそう言うと、テランスは一瞬顔をしかめた。「そういうことじゃなくて」と溜息をついて体を起こすテランスを、ディオンは見上げる。
「そういうことだ。テランスがいる世界が映っている――未来の色をした世界が」
「……それは、反則だ」
 緩く頭を振って、テランスが言う。何を思い出したのだろうか、苦しげな表情で再び身を倒した彼を、ディオンは両腕を広げて受け止めた。温かい。
「そして、私も」
「ディオン?」
 ほとんど距離をなくした視界で映るのは、己を見つめる最愛。そして、その美しいブルーグレーの瞳には。
「その瞳のなかに、私がいる。テランスのいる世界に、私もまた」
「僕のいる世界……未来に、君も?」
 問うたテランスに、ディオンはまばたきで応えた。勿論、とそうして続けると、テランスが破顔する。
「ようこそ、僕が願う世界へ。……これは、ディオンが「人として」生きる世界だよ」
「そうか」
 かつて。ディオンは思い起こした。
 別離を望んだ日、己は「未来」を彼に押し付けた。己が欠けた未来、彼にとってそれがどんなに残酷であるかを分かっていて、それでも望んだあの日のことを。
 己の望んだ未来。彼が願った未来。それらは違う色をしていて、けして同じではない。どれほど近くに在っても、分かり合っていても。
 そのことにひどく不安を覚える日もあるだろう。苦しく思う夜も来るのだろう。これまでがそうであったように、これからも揺り返しのときが訪れる。
「ありがとう、テランス」
 広い背に手を回し、ディオンはテランスを抱きしめた。贖罪という名の軛を解き、時を進めた世界から手を差し伸べてくれた、唯一の存在を。
 肩越しに、そうして空が見える。
 己が見る未来の色は、優しい空色をしていた。

あとがき

おおむね全快した頃のディオンのお話。少し?前向きな殿下です。シドから受け継いでクライヴが自分のものとした考えであるところの「人が人らしく~」がディオンにも沁みているといいなと思っています。

ドリス隊長が書いていて楽しかったです。オリキャラのウィフィとの模擬戦はFF14のスキル回し動画を見つつ書きました(しかし活かせてない)。14プレイされている方々はあのスキル回し覚えて使いこなすんだ、殿下はさらにその上をいくんだろうなーと思ったりもしますが、いやでも皆さんすげえや。私は新生のリヴァイアサンで頓挫しました…(昔は白魔、この前は吟遊詩人でした)。

タイトルはKalafina「in your eyes」から。曲と歌詞に合わせてもっと明るい&らぶーな話だったのに、おかしいな?

追記(2024.10.28):再録本発行にあたり、一部修正しました(加筆はしていません)

2024.02.23 / 2024.10.28