青の空と水面の光

 空を見上げると、心がざわめいた。禍々しい紫色の空だった。
 いつまで続くのか。陽は、星は、月は、メティアは、もう戻らないのか。誰しもがそう思った。
 私も、そのひとり。
 吸い込まれそうなほどの青の空、何故か懐かしさが込み上げた黄昏色の空、優しい漆黒の夜空、月に寄り添うメティアの赤。それらすべてを覆い隠し、不気味な空が現れた。
 何もかもが遠い昔のようだった。陽は、星は、月は、メティアは、もう見えない。
 見えたのは、禍つ空に黒塊。その空を翼が切り裂き、優しい炎達を運んでいった。
 目を凝らしても見えなくなれば、幻のようだった。抱きしめられたことも、唇を重ねたことも、愛と帰還を誓った声色も。――いつか、記憶の片隅にしまいこむのかもしれない。忘れてしまうのかもしれない。けして、そうはさせないと思ったとしても。
 それが、とても怖くて。
 やがて消えた禍つ空、はじまりの夜明け。目を逸らせなかった。
 残酷なほどに美しいこの光景こそ、忘れ去ってしまいたい。消えてしまえばいい。けして、そうはならないと分かっていても。……それでも。
 いつわりのない、願いだった。



 久しぶりに、旅支度をしたような気がした。
 とはいえ、携帯する革鞄の中身は以前とあまり変わらない。新たに加わったのは、使い込まれた方位磁石と地図くらいなものだ。
 磁石の蓋に付いた細かな傷を見つめる。多くの旅路を彼と歩んだあかしの傷だった。
 手紙箱の上に磁石は置かれてあった。不要だからと置いていったのか、単に持っていくのを忘れたのか、それは分からない。前者だとは思うのだが、彼は結構抜けている。
「クライヴ、借りるわね」
 そう呟いてジルが方位磁石を鞄に戻したそのとき、開けたままだった扉をノックする音がした。
「そろそろ、出られる?」
「ええ」
 戸口に立ったミドに、ジルは頷いた。よし、とミドもまた笑顔で頷き返したが、鞄と細剣を持ったジルが隣に立つと、ふと眉根を寄せて俯いた。
「ジル、ごめん」
「え?」
 言葉の意味が掴み取れずに、思わず訊き返す。ミドの突然の謝罪に、ジルは心当たりがなかった。
 戸惑いはすっかり伝わったのだろう、ミドは一瞬泣きそうな表情を見せた。
「あたし、ヒドイこと言ったね」
 俯いたまま、ミドが呟く。
「自分の考え……っていうのかな、感情をジルに押し付けた」
 あのとき、夜明けの日に。
「……」
 ああ、とジルは合点がいった。あのとき、夜明けの日。ミドは確かに、自分相手に激高したのだった。
 掴みかからんとする勢いで迫り、見せたことのない表情で、相手が思ってもみない言葉をぶつけた――、そのことをミドは言っているのだろう。
「そうかもしれない」
 あの日を思い出し、しかし、ジルは笑んだ。
「でも、ミド」
 優しい「妹」の両手を取って、緩く握る。おずおずと顔を上げたミドに、ジルは「ありがとう」と続けた。
「あなたは、暗闇に落ちた私の手を掴んでくれた」
 あのとき、夜明けの日。
 いつわりのない願いをも打ち消す、強い言葉は光を放っていた――。



『そんな物分りの良さなんて、捨てちまえ!』
 陽は再び昇り、青の空。
 泣き疲れて放心していたジルに歩み寄ると、ミドはそう言い放った。
 言葉の強さに、びくりと体が震えた。空転し続けていた思考は、見えぬ何かにぶつかって急に止まった。
 ミド? 固まったままでそれだけをようやく返す。
 その反応はミドの心の火に油を注ぐようなものだったらしい。彼女は大きく息を吸うと、同じ言葉を繰り返した。
『そんな物分りの良さなんて、捨てちまえ! ……なんで、立ち止まってるんだ!』
 黒い塊が砕けて消え、メティアも消え、夜明けを経て、青の空。何が起きたのかなんて、明らかだった。人という存在が神に勝ち、新しい世界が始まった。夜明けは、青の空は、そのあかし。
 そうして、彼らがもういないということのあかしでもあった。少なくとも、あのときは何故かそう思ったのだ。
『諦めるな! 足掻けよ、ジル!』
 直感に竦んでしまっていたジルに、ミドが怒鳴った。居合わせた多くの人々は突然の事態に言葉を失い、デッキは静まり返った。
 逃げるなんて許さない、ミドの視線がジルを縫い止める。目を逸らそうとしても叶わず、何か言い返そうとしても言葉が出てこない。目映いほどの光に晒されれば、隠れられる影も見当たらなくなるのだと思い知らされた。
 ――私は、どこへ。
 いったい、どこへ逃げようというのだろう。何から隠れようとしているのだろう。
 ――私は、何を。
 いったい、何を恐れているのだろう。
『ジル、ど、どうして泣くの? 空が、もとに、も、戻ったのに?』
 そのとき、背後からおどおどとした声が聞こえた。グツだ。
『クライヴたち、帰ってこないね。ヘンだよ、さ、探しにいこう?』
 縫い止められたままグラグラと揺らぐジルの心に、ほのかな光が浮かぶ。いつの間にか止めていた息をようやくの思いで吐き、次いで短く吸った。
 そうすること、数度。
 暗闇で、手を引かれた。彼ではないけれど、大事な人々に。
 見失いそうだった想いに、いつわりのない願いに隠れた本当の心に、寄り添ってくれた。彼ではないけれど、大事な人々が。
『……ええ』
 グツの、ミドの、皆のまなざしを受け、やがてジルは頷いた。
『……間に合わないかもしれません、でも、ご無事でいてほしい』
 割り込んできたヨーテの絞り出すような言葉に応じるように、タルヤが『ギリギリってところよ、正直』と続けた。石化が進んだ体は、元に戻らない。それどころか、一線を越えれば砂となって風に消え去る。ヨーテが案じる先は彼女の主――ジョシュア――だった。
 皆、我に返った。まぼろしに心を揺らがせている場合ではなかった。
 でも、エンタープライズだけじゃ探しきれない。眉尻を下げてそう言うミドに、バイロン・ロズフィールド卿が笑って言う。何のための縁だ、と。
 先代のシドが、そしてクライヴが、結んできた多くの絆。誼。縁。今こそ、それを総動員するときだろう。
 確かにな、とカンタン卿が頷き、オットーに向き直る。オットーもまた頷いて、ゴーチェを呼んだ。ヴァリスゼア中の「協力者」に連絡を取れ。大至急だ。
 ロズフィールド卿に悪態をつきながら、ハヴェル卿は軍の配備を考え直すと応じた。人手はどこまでも足りていないが、動かせそうなアテはある。そう言ってニヤリと笑んだ。
 ガブがストラスを空に放つ。白い鳥は、青の空に映えた。
 ――自分には、何ができるだろう。そう思ったジルに、ミドが再び近寄る。前に、父さんが言ってた。ジルも知ってるかもしれないけれど。
 ジルにしかできないことだよ。彼女は目を細めて、笑った。

 ――強く、呼ぶんだ。



 それからは、目まぐるしい日々が続いた。
 夜明けからは、実はそれほど日が経っていない。なのに、すごく昔のようにも思える。
 握っていたミドの手を離し、ジルは「行きましょう」と彼女を促した。
 昇降機を降り、船着き場へ。渡し守のオボルスと話し込んでいたガブが二人に気付き、手を振った。傍らのタルヤとコール、そしてヨーテも視線をこちらに投げる。
「揃ったな」
 パシ、と両手を叩いてガブがその場にいる全員を見回した。人数は少ないが、この面子こそが「救援本隊」なのだった。
 オリジンへ向かった三人の捜索隊は、協力者とそれに縁のある者達によって編成された。彼らはオリジンとなってしまった旧クリスタル自治領・ツインサイド周辺を中心に、風の大陸全土と灰の大陸の一部に捜索の手を拡げ、情報を集めた。結果、「シド」の存在を断片的にでも知る多くの人々が手がかりとなりそうな情報を寄せ、その分析にヴィヴィアンは昼夜問わずに忙殺された。
 ジルはそれを手伝った。まったくの噂話やでっち上げ、金品目当てや扇動を目的としたデマも中にはあったが、思っていたよりは少なかった。ヴィヴィアンも面食らっていたが、すぐに「人徳だな」と笑った。
 そうして数日が経ち、先発のドリスから文使いの鳥が飛んできた。
 噂話などではなかった。可能性を秘めた報せでもなかった。手がかりの欠片でも、灯火のような希望でもなくて。
 飾り気のない筆致で綴られていたのは、事実。そして、それはジルの「いつわりのない願いに隠れた、本当の願い」そのものだった。――見つかった、ついては指示を。
 瞬間、ぐらりと視界が揺れたが、なんとか堪えた。ふうう、と息を吐いて、浮足立ちそうな感情を抑えた。それでも、目の前が滲んでぼやけ始めたのは如何ともし難かった。
 涙を乱暴に拭い、文の続きを読んだ。――今は動かせない。
 ……だったら、今度は、私が。私が、彼のもとへ。
 そう、思った。
 ――待つのは、もうやめにしよう。
 そう、思えた。
「ガブ、悪いわね」
 タルヤとヨーテにコールが手を貸し、ミドが飛び乗り、ジルは傾いだ舟にそれでも苦もなく乗り込んだ。そうして、自分に続こうとするガブに声をかける。
「んんん?」
 何のことだ? 手伝えとオボルスに突きつけられた櫂を下ろしながら、ガブはジルを見やった。その不思議そうな顔つきに、ジルは思わず笑んだ。
「エッダさんの傍にいられなくて」
「……いや、そういうんじゃないし、本当」
 ぐったりと脱力したガブを見て、ミドが声を上げて笑う。タルヤが呆れたように肩を竦め、ヨーテは静かに微笑んだ。オボルスとコールは口の端を上げている。
 あたたかい、ジルは思った。
 そう、このあたたかさを彼に伝えたい。皆の、そして、私の。
 だから、待っていてね。今度は、あなたが。
 ベンヌ湖の水面に、優しい陽の光が散る。これから厳しく激しい風が世界に吹く、その狭間に訪れた、いっときの静けさ。
 だから、手を伸ばしていてね。今度は、私があなたの手を掴むから。
 願う。呼びかける。
 誰にでもなく、メティアにでもなく、彼にこそ。

 ――確かな未来を、ともに歩くために。

あとがき

オリジン消滅後のジルのお話。EDがすぐに飲み込めなかった感情のままに書きました。どちらかというと受け身なところがある彼女に自分の心に向き直ってほしいなと思った次第。

ちなみに、本作における「オリジン組が生存&帰還する」設定はここから始まっています。

追記(2024.10.28):再録本発行にあたり、一部修正しました(加筆はしていません)

2024.02.09 / 2024.10.28