詳細説明は「同人情報」をご覧ください
- 旅の前に:クライヴの隠れ家(サンプル ※全文)
- 古びた井戸:ロザリア
- 石礫:ロザリア
- 羽ばたく鳥の行く先は:ダルメキア(サンプル ※抜粋)
- 掠れた手紙:ダルメキア
- 市場にて:ダルメキア
- 灯火:旧クリスタル自治領
- 灰色の都:ウォールード(サンプル ※抜粋)
- 真実の名のもとに:ウォールード
- 女神の微笑み:ザンブレク
- 晴れた空に降る雨:ザンブレク
- 旅の終わりに:世界のどこか
「では、その手筈で」
「報告書は纏めて送ってくれ。適当でいい」
「気を付けて行くのだぞ」
三者三様の言葉を受け、ディオンはかすかに笑んだ。承知した、と応え、傍らのテランスにも視線を送る。此方の意を汲み取ったテランスもまた笑みを浮かべ、風の志士達に略礼をとった。
そうして作戦室を出る。陽は未だ空高く、暗がりに慣れた目が陽射しに眩んだ。直接の陽射しだけではない、ベンヌの湖面にきらきらと強く反射する光も、目を眇めてしまうには充分なほどだった。
「まずは、オルタンスか?」
「はい。既に用意はできているとのことです」
支度は念入りにな。常の太い笑みで言って寄越したロズフィールド卿に従って動くことにした二人は、今回の件に先んじて「依頼」をしていた倉庫番のもとへと足を運んだ。
――旅に出ることに、なった。
混沌の只中に在る世界の実情を把握したい、という声があった。
現実を直に見たい、と願う内なる心があった。
君と共に旅がしたい、という希みを聞いた。
すべてが未来へと動き出す、その少し前に。
今、というときだからこそ――。
「殿下、テランスさん」
色々あった末に顔馴染みになったからだろう、以前と比べて格段に落ち着いて出迎えたオルタンスに、ディオンとテランスは片手を挙げて応じた。
「ご所望の外套はこちらです」
簡単に挨拶をしてからオルタンスは作業台に置いてあった包みに手をやった。埃除けの油紙から丁寧に畳まれたそれを取り出して広げる。
「じゃーん!」
裾が床につかないように外套を精一杯掲げたオルタンスが高揚した声を上げた。その愉快な声が面白くて、ディオンは笑いながら外套を受け取る。
「ほほう、これはなかなか……」
「しっかりしたつくりですね」
ディオンが手にした外套をテランスも覗き込む。フードが付いた外套は落ち着いた色合いで、使われた布地も実用的なものだった。揃った縫い目が美しい。
「耐水用の油を薄く引いていますから、多少の荒天はどんとこいです」
「それは有難い。試着してみても?」
ディオンの問いに、オルタンスは満面の笑みで「勿論です!」と頷いた。
「旅装となれば、今より少し厚着になるときもあるでしょう。それを考慮したほうがよろしいかと」
外套を着込みながら、ディオンはテランスの言葉を聞いた。オルタンスが「そこなんですよ!」とこれまた大きく頷く。
「以前採寸させていただきましたが、それよりもほんの少しだけ大きめに作りました。といっても、気をつけたのは首周りと肩幅くらいですけどね」
オルタンスの説明通り、確かに少しゆとりがある。だが、それは気になるほどではなく、むしろ動きやすい。裾の長さや翻り方、フードが遮る視界の幅に全体の重み。すべてが想像していたよりも遥かに此方の希望に適っていた。
そして、最後に。
「この留め具も良い」
確認をし終えて外套を脱ぎ、ディオンは留め具を指し示した。
「でしょう! さすがは殿下!」
分かっていらっしゃる!
オルタンスに詰め寄られ、ディオンは慌てて一歩を引いた。テランスが苦笑しながらディオンの脱いだ外套を受け取る。
「……これは鳥の意匠ですか?」
そうです、とオルタンスはテランスに答えた。
「せっかくだから何か素敵な意匠にしたいなと思ったんですが、なかなかこれが難しくて。ジルさんと、お裁縫愛好会と、お針子組総出でああでもないこうでもないと考えたんですけどね」
つらつらと語りだしたオルタンスの言葉に、ディオンとテランスは顔を見合わせた。
なんだか、大ごとになっているような気がする。
「殿下といえばやっぱりバハムートが印象深いけど、これからは切り離したほうがいいという意見が大半を占めていて、じゃあそれに代わるものってなんだ?ということになって、槍とか御髪と瞳の色とかテランスさんとか色々挙がったんですけど」
「いや、少し待て」
右手を翳してディオンは立て板に水状態のオルタンスを制した。
己が得物や身体の特徴はまだ分かる。だが、テランスを持ち出すというのは……いったいどういうことだろうか。聞かずとも分かるような気はするが、ひとまずここで止めなければ話があらぬ方向に逸れていくのは間違いない。
横目でテランスを見やると、やはり同じような心持ちになったようだった。少しばかり顔が引きつっている。
「え、だって殿下といえばテランスさんじゃないですか? 先日開催された「ヴァリスゼア名コンビ大投票」では残念ながらテランスさんのお名前がなかったので選考外でしたが、後に皆で「コンビじゃなくて、名カップルだよね」なんて頷き合ったんですよ? 隠れ家のほぼ全員の総意です」
「は、はあ」
喜んでよいのか、そうでないのか。もはや隠し立てしているわけでもないから、別に構わないといえば構わないのだが、しかし、これは。
「まあ、そんな経緯はさておき」
ディオンとテランスの背中を伝った冷や汗をよそに、オルタンスは目に見えぬ箱を避けるような仕草をした。
「でも、どれもピンとくる感じじゃなかったので、ボツになったんです。そこで、ジルさんがシド……クライヴに相談してくださって。クライヴがさらにジョシュアさんにも相談して、やっぱりああでもないこうでもないとなったんですが、結論を言ってしまえば語り部の案が選ばれました」
疾走するチョコボが急停止したかのように唐突に終わった話にディオンは思わずよろけそうになったが、なんとか踏み止まった。
「先生の?」
オルタンスが出した名には思いも寄らず、ディオンは考えるよりも先に彼女の言葉を繰り返した。
「ええ。鳥はどうかねって。他のドミナント、たとえばジョシュアさんも不死鳥だから鳥ですよとお伝えしたんですが、そういうことではないよって微笑まれたんですね。どうして鳥なんですかと聞いてもその先は教えてくれなかったんです」
ただ、とオルタンスは続けた。
「なんとなくですが、それがいいなって皆思いました。なので、語り部の案をもとに仲間が素案を何枚も描いて、ブラックソーン経由でゾルターンさんに制作をお願いして、完成したのがこの留め具になります」
説明を終えたオルタンスに、そうか、とディオンは短く返した。外套に取り付けられた留め具を見つめる。
象られていたのは、止まり木で翼を休めている鳥だった。
続いてサロンへと赴く。オットーに目配せされたゴーチェから「協力者」一覧を受け取り、作戦室へと戻った。三志士に占領されていた作戦室を奪還したヴィヴィアンに最新版の地図を譲ってもらう。ついでに話をすると、もう少し情勢が落ち着いたらカンベルの大学に戻るつもりだと彼女は語った。
医務室ではタルヤが待ち構えていて、「聞き飽きてるでしょうけど」と前置いてから「長旅での注意事項」を滔々と説いた。無理無茶無謀の挙句に倒れたらベッドにぐるぐると縛り付けるから、と据わった目で物騒なことを言う彼女にディオンは神妙さを装って頷いた……のだが、勿論そんなことは簡単に見破られて、タルヤはテランスに向き直って「貴方がなんとかするのよ」と低い声で告げた。
はい、と誠実に応えたテランスにロドリグが薬について簡単に説明する。それを隣で見守っていたキエルが「私も何かお薬を、と思ったんだけど……」と消え入りそうな声で言うので、ディオンは「そなたの笑顔が何よりの薬だ」と屈んで目線を合わせた。こくり、と頷きながらそれでも涙を浮かべる彼女に、「今生の別れではないのだから」と笑んでみせる。すると、「分からないわよ、何が起こるかなんて」とタルヤが口を挟んだ。
確かにそうなのだが、不安を抱えた少女の前で言うことだろうか。溜息をつきたくなるのをぐっと抑え、ディオンはキエルに改めて向き直った。「テランスがいる、大丈夫だ」とそうして言うと、「お任せください」と背後からテランスの声が降った。
ようやく笑ったキエルの肩を撫でて医務室を後にし、アトリウムへ向かう。ちょうど「ダンジョン」から出てきたミドが旅程を訊いてきたので、テランスがざっと説明した。「船を使うときは早めに教えろよ!」といつもの口調でミドは快活に笑い、すぐにまた巣穴へ戻っていった。
此方を気にしているようだった子供達の勉強を邪魔せぬように裏デッキ経由で階下へ。階段を下りながら「此処は」とディオンは斜め後ろのテランスを振り仰いだ。「少しく調子が狂うな」と苦笑混じりにそうして思うままを告げると、何故かテランスは嬉しそうに笑った。
留め具を作ったというゾルターンへの礼を託すべく工房に立ち寄ると、ブラックソーンは見るからに不機嫌そうな顔つきで二人を眺めやり「自分で言うんだな」と返してきた。その通りではあったのでディオンは頷いたのだが、居合わせたオーガストに「真に受けないほうがいいですよ」と忠告された。なんでも、留め具の細工を任されなかったのがブラックソーンにとっては相当に悔しかったらしい。ディオン達を離れたところに連れていき、小声で「真相」を語ったオーガストだったが、ブラックソーンが投げた鉄片が背中に命中してその場に蹲ってしまった。
呆気にとられたディオンにブラックソーンが「ルサージュ卿」とぶっきらぼうに名を呼んだ。そうして、此方が応じるよりも先に「どちらかが使ってみろ」と傍らに置いてあった剣らしきものを押し付けてくる。「これは?」とディオンが問うと、「試作品だ」とブラックソーンはやはり無愛想に言った。「使いこなせるかどうかは分からんがな」と呟き、さっさと背を向けて作業に戻っていった。
「いつ、発たれるのですかな?」
今はクライヴとジョシュア――ロズフィールド兄弟――が執筆中の「見聞録」の手伝いをしているのだという恩師ハルポクラテスは、いつものように書庫の奥でディオン達を迎えた。
机上には、数冊の書と筆記具、空っぽの花瓶が置かれていた。花瓶を見てディオンが僅かに目線を逸らしたことにハルポクラテスは気が付いたらしい。だが、それには特に言及するわけでもなく、先の問いかけをしてきたのだった。
「準備が概ね整いましたので、明日にでも。……先生、ひとつお訊きしてもよろしいでしょうか?」
「この老いぼれに答えられることなら、勿論ですとも」
そう言うと、ハルポクラテスはゆったりとした笑みを浮かべた。
テランスが持っていた外套を受け取ると、ディオンは留め具を外した。ごく薄く金色を帯びたその留め具をハルポクラテスに渡す。
ハルポクラテスは微笑んだままに、両手でそれを受け取った。そうして、「見事な細工ですなあ」と言い、「ご質問はこれについてですか?」と続ける。ディオンはその問いに首肯すると、オルタンスの話を恩師に伝えた。
「何故、鳥なのです?」
留め具の意匠が鳥になった理由は知らされていない、とオルタンスは話していた。語り部の案を「なんとなく」皆が気に入り、作ったのだと彼女は説明したが、その言葉に嘘は含まれていないとディオンは考えている。だが、誰もが詳しくは知らないその理由――恩師が意匠に込めた思いは知っておきたいと思った。
何故、なのか。
「殿下はどのようにお考えでいらっしゃいますかな?」
ハルポクラテスは反対にディオンに訊き返した。
「それは……」
ディオンは言葉に詰まった。それこそ、皆が思ったように「なんとなく」の推測はしている。だが、それでよいのか。「それ」は許されるのか。――よく分からない。
「答に窮されるということは、良きことと私は考えております。それだけ真剣に思われているということ。ですが、いえ、ですから私は答をお教えできませんし、私の答と殿下のお考えはおそらくは異なるでしょう」
ハルポクテラテスは笑む。
「同じ、かもしれません」
「それもまた重畳、すべては殿下の御心のままに。――良き旅となられますよう」
結んだハルポクラテスに礼を言い、ディオンはテランスと共に書庫を出ようとした。しかし、目の前を突然人影が横切り、思わず立ち止まる。
テトとクロだった。
「でんか!」
常ならば様々な呼び方でディオンを呼ぶテトだったが、今しがたのやり取りを聞いていたのだろう。ディオンのことを「殿下」と呼び、満面の笑みを見せた。
続いて、クロが若干緊張した面持ちで、「あのね、あのね」と言う。「どうしたのだ?」と問い、キエルにしたときよりもさらに屈んでディオンが目線を合わせると、二人は意を決したように手にしていたものをディオンに差し出した。
「これ、旅のお守り!」
「……ストラス?」
手のひらに乗せられたのは、手のひらに乗るほどの大きさの人形だった。いや、人型ではないのだからぬいぐるみというべきか。手製と思われるそれは、多少不格好だったが、かつてよく使っていた文使いの鳥を思わせた。
「そう! 語り部のように内緒にはしないよ、僕たち!」
「殿下がね、ストラスにはひみつの話ができるように作ってみたの。本当は、ネクタールの毛をすこーしだけもらってモーグリにしようと思ったんだけど、逃げられちゃって」
最後のほうでなかなかに恐ろしいことを言ったクロだったが、ディオンは頬を緩めた。ありがとう、と言って二人の頭を撫でる。
えへへ、と笑ったテトが続いてテランスを見る。「こっちはテランスに!」とテランスに差し出したのは、やはり手製と思われる……黒茶色の謎の生き物だった。
「これは……?」
困惑の思いで訊ねたテランスに、「熊だよー」とテトが言う。
「トルガルみたいなオオカミもね、かっこいいよなって思ったんだけど、シドとジルお姉ちゃんとジョシュアお兄ちゃんがダメって言うんだよ。なんでか分かんないけど。そしたら、ガブが「熊はどうだ?」って」
「……何故でしょう?」
「なんでかな? でも、テランスって強いんだよね?」
テランスではなく、テトはディオンを見た。とても、とディオンが頷くと、テトもクロも「だよね!」と互いの両手を叩き合わせる。
「空高く跳ぶ熊、というのもよいな」
「ディオン様までそのような……。でも、ありがとうございます」
熊らしきお守りを受け取り、テランスがはにかんで笑んだ。
「たくさんお話聞かせてね」
「ケガとか病気とかしたら、タルヤ先生がこわーいから気を付けてね」
笑顔の双子にも再会を約し、書庫を出る。階段を下りようとすると、ジョシュアがいた。
「荷物が増えるかもしれないけど、僕からはこれ」
思考の先が常に読み切れない友人から差し出された手帳をディオンは受け取った。
「手帳?」
問うと、ジョシュアは頷いた。そうして、「ヨーテが」と話し始める。
「僕の代わりに、それとも、自分のためにかな? 旅の仔細を毎日書き留めていた。ほんの数行だけど、僕の体調とか新たに分かったこととか。「隠すものでもないですから」と言ってくれたから、時々読ませてもらったよ」
若干の惚気も混ざった話をディオンは好ましく聞いた。
「……記憶は風化する。そんなときに、あのときどう考えていたか、何を思っていたか。それを思い出すにはいいんじゃないかな。おすすめだと思う」
そうそう、とジョシュアが手を打つ。君達の場合、と続けた彼に、ディオンとテランスは顔を見合わせた。
「交換日記もいいかもね?」
甘酸っぱいだけで終わるといいけれど、と言うジョシュアに、二人はなんと答えてよいか分からずに空笑いをしたのだった。
次の日の朝、オボルスの舟で隠れ家を出た。
湖面を弾く朝陽の光が美しい。浅青の空にうっすらと雲が浮かぶ穏やかな朝だ。
対岸の桟橋で下船する際に「気を付けてな」とオボルスに言われ、ディオンは片手を振って応えた。待っていたドリスから旅慣れているというチョコボを借り、その首筋を軽く撫でる。頼む、と伝えると、チョコボは何かを解したのか、「クエッ」と応じるように鳴いた。
「お気を付けて。何かございましたらストラスを飛ばしてください」
ドリスに言われ、不意に「お守り」を思い出したディオンは笑んだ。不思議そうな顔で見る彼女に頷いて応じ、荷を括り付けて騎乗する。高くなった視界が心地よい。
「では、行くか」
「はい」
オボルスとドリスに見送られ、二人の旅が始まる。
――まずは、北へ。
「逆だと思ったんだがな」
開口一番、そのように言われてしまったディオンは、その先をどう続けようか考える羽目になってしまった。
「ゾルターン殿、それはどういう……?」
「「殿」なんていうのもよしてくれ、ルサージュ卿。……あんた、じゃなくて……ええと、なんだ、貴方はブラックソーンのことを何と呼んでいる?」
ダルメキアはドラヴォズ、村長であるゾルターンの工房に赴いたディオンとテランスを待ち構えるように彼は工房の前に立っていた。後ろでは職人が何人か炉やふいごの調整をしている。彼らは「客人」の正体を既に知っているのか、顔を引きつらせているようでもあったが、ゾルターンはそれに関しては何か言うつもりはないようだった。
「ブラックソーン、と」
ディオンが正直に話すと、ゾルターンは大きく頷いた。
「だろうな。なら、俺のことも呼び捨てにしてくれて構わん。ルサージュ卿のことは……」
「私のほうこそ、好きに呼んでくれて構わない」
じゃあこのままで、とゾルターンは言いながら背後を見やった。職人達に「少し出る」と告げ、ディオンとテランスを指先で呼んだ。
「此処だと暑いだろう。酒場がある」
外套も脱いでしまえ、見ているだけで暑苦しい。ゾルターンがディオンに向かってそう言ったので、ディオンはますます困る羽目になった。
流石に、と思う。ダルメキアの各地を秘密裏に偵察して回ったことはあるが(それは貴方の責務ではありません、とテランスにはそのたびに睨まれたものだが)、ディオン・ルサージュ――バハムートのドミナントかつ聖竜騎士団のトップであると一目で分かるような格好はしなかった。暑いと思いながら我慢して外套を着こんだり、せめてもと頭に布を巻いたりしたものだ。ザンブレクの貴族が物見遊山に来ている、その程度に抑えていた。
「要らぬ騒動を引き起こしかねません」
当然、テランスも危機感を覚えたらしい。苦い口調でゾルターンに彼は言ったが、返ってきた言葉は「今更だ」だった。
「村の連中には客人が来ると伝えてある。その正体もな」
「……やはり、先ほどの彼らも」
顔が引きつっていた職人達をディオンは思い出した。こっちだ、と階段を下りながらゾルターンがディオンの推測に頷く。
「小さな村だからな、下手に隠したとしてもあっという間に噂は広まる。尾ひれがついてどうにもならなくなるよりは先に話しといたほうがいいのさ」
それに、とゾルターン。
「暑さでぶっ倒れるほうが困る」
「……承知した」
フードを取り、留め具を外してディオンは外套を脱いだ。すぐさまテランスが外套を引き取り、丁寧に畳む。皮鎧は着用しているものの、ディオンに比べて軽装のテランスはそのままにするつもりらしかった。
熱風が吹いているが、からりと乾燥していてそれほど暑さは感じなかった。ゾルターンの案内で日陰を歩けば、涼しさは増した。
「おう、今いいか?」
「あら、ゾルターン。この人達が「お客さん」かしら?」
酒場の女主人にゾルターンは頷いた。真っ昼間で誰もいない酒場の卓をひとつ借り、ディオンはゾルターンと向かい合って座った。例によってテランスがディオンの背後に控えようとしたが、ディオンの睨みとゾルターンの「おっかないから座ってくれ」という言葉で、ディオンの隣に座を占めた。
「酒は出さないよ。薄荷茶でいい?」
女主人の言葉に、ゾルターンがディオンに目線をやる。ディオンが「よしなに」と言うと、聞こえたらしい女主人が「あっつあつだけどね!」と笑った。
「前は冷茶もあったんだがな、クリスタルが消えた今は冷やすのが難しい。それでも、それなりに旨いから安心してくれ」
「何言ってるの、薄荷茶は熱々がいいんじゃない」
ぽんぽんと飛び交うやり取りに、ディオンは小さく笑った。
「それで、何が「逆」と思ったのであろうか」
女主人が供した薄荷茶で喉を潤し、場が落ち着いたのを見計らってディオンはゾルターンに訊ねた。ああ、と腕を組んでゾルターンは椅子に凭れた。
「その留め具は俺が作った。それは聞いてると思うが」
「作られた経緯の大まかなところは聞き及んでいる。……ブラックソーンが其方に依頼をしたと」
隠れ家の面々から聞いた話をディオンは思い出した。
裁縫が趣味で得意だという倉庫番のオルタンスに、ディオンは旅で使う外套の作成を依頼したのだが、彼女が事を大きくした。今までとは違う、ザンブレクともバハムートとも関係のない、これからの――未来の――ディオン・ルサージュを表す意匠を考えようとした「オルタンスとその仲間達」は、隠れ家全体を巻き込むような形でああでもないこうでもないと思案に暮れたらしい。
結果、隠れ家の「語り部」にして己の「恩師」でもあるハルポクラテスの案が採用された。「止まり木の鳥」がどのような意味を持つのか、訊ねたディオンに恩師は答えなかった。出された「宿題」は今でも答が出ないままだ。
誰もが「なんとなく」それがいいと思い、そうして素案は作られた。誰が作るのか、といった段になって、ブラックソーンは自らに白羽の矢が立たなかったことを相当悔しがっていたとオーガストは言っていたが――。
「ブラックソーンの奴は忙しいからな。おまけに、完璧主義で抱え込みがちな性分だ。得意分野も俺とは違う」
「それも、彼の飲み仲間から聞いた」
戦道具全般の扱いが巧みなブラックソーンは、オーガストが「本人曰く」と付け添えて言うことには、「細工はゾルターンに負ける」とのことで、そのときの溜息が忘れられないとオーガストは言った。
「素案と事情と一緒に送られてきた手紙に書いてあった。『本当は俺が作りたかった、だが、認めたくはないが彫金はやはりゾルターンに負ける。飛びきりのものを作ってくれ、でないとドラヴォズの名折れだ』とな。珍しい、と笑いながら読んだが」
まあ、本当は。ゾルターンは続けた。
「俺が得意なのは、あくまで戦道具に施す細工だ。身を飾るのとは違う。だから、俺からさらに彫金師に頼む手もあったんだが、それじゃ面白くない。そう、久々に腕を鳴らせて作らせてもらった」
にやりと笑むゾルターンに笑みを返し、ディオンは卓に置いた留め具を眺めた。ごく薄い金色の鳥は、己の姿だと思う。止まり木で翼を休めているその姿をどう考えるべきか。羽ばたくときは何処へ向かうのか。その行く先は。
「……だが、な。ブラックソーンの奴が「試作品」を後で作ったって聞いたんだ。それがまあ、面白そうな機工が組み込まれてるらしくてな。「逆」ってのはそういうことだ」
続いたゾルターンの話に、ディオンは目を瞬いた。そういえばあのとき、不機嫌極まりないといった顔つきと共にブラックソーンが押し付けてきたものがあった。
「仕掛けがあるんだろう? 持ってるか?」
「ええ」
応じたのは、テランスだった。見た目は剣ということで、テランスが持っていたほうがよいだろうという話になったのだ。そういったわけで常剣と合わせて二振りを携えていたのだが、先日の造船所での一件で常剣のほうは大きく損傷した。ドラヴォズで修理してもらうつもりではいたが、身を守るためにも武器は必要だ。そうして「試作品」を使う機会も出てくるようになり、使い手のテランスのみならず、ディオンも驚くことになったのだが――。
「重心がとても良いのです。打ち合っていても剣の重みで苦労することはなく、鋼の質も良いのでしょうか、軽すぎるということもない。切れ味も鋭く、持ちやすく、手入れも容易い。流石、と思っていましたが、まさかこのような」
テランスがブラックソーンの剣を卓に置いた。柄周りの精緻な細工を除けば、一見すると普通のブロードソードだ。薄暗い酒場でも刀身が光っているようにも見えるのが不思議ではあり、業物ということは分かる。だが、それだけではない。
「どうやれば「割れる」んだ?」
「この突起を押しながら柄を振れば分離します。御覧になられますか?」
テランスの問いに、ゾルターンは意外にも首を横に振った。
「……見たいのは山々だが、止めておこう。俺はダルメキアの人間だからな」
苦笑いで薄荷茶を飲んだゾルターンの言葉の意味を、ディオンは察した。
これからの有事の際、たとえば旧ダルメキア――フーゴに媚を売っていた者達――が実権を再掌握すべく動き出すなどといった場合、ドラヴォズには武器の量産依頼が舞い込んでくるだろう。今までがそうであったように。
「此処――ドラヴォズは鍛冶で成り立つ村だ。だが、それは人殺しの道具を作るためだけじゃない。できれば、そんなのは作りたくないさ。野盗を追い払ったり、旅人が安全に動けたりするくらいの武器作りくらいが本当は丁度いい。……とはいえ、「試作品」みたいなとんでもないヤツとかへの興味は尽きないのが厄介だがな」
職業病のようなものだ、とゾルターンは笑う。
「それを見て、理解して、うっかり真似して作りでもしたら、危険だろう? シド達が守って、ブラックソーンがそれを支えたヴァリスゼアが、どうでもいい小競り合いで滅ぶ。俺はそんなのには加担したくないんでね」
「……そうか」
ゾルターンの言葉はディオンの耳には痛かった。
人の争いはこれからも続くだろう。融和への道筋はあまりにも遠く、人々の心は荒廃している。希望は潰えてはいないと思うこともあるが、そもそも、「希望」とは何なのだろうか。望みの、願いのために動く心、とでもいうべきだろうか。……それすらも、多くの民は持ち合わせていない。今を、今日を生きるだけでも精一杯で、過去には目を向けても、未来を――明日を夢見る者はどれだけいるだろうか。煌めきのなかで過ごした過去を持つ者、苦しみと蔑みの底で過ごした過去を持つ者、高みから見下ろしていた者、人が人であるようにと願った者。それらの人々の心が少しでも寄り添えるような、未来を垣間見られるような下支えができれば、と個人では思う。……思うが、そのためには現実を見なくてはならない。
争いは起きるのだ、確実に。そして、己も愛槍を手にするだろう。
守るために。未来のために。……それは、詭弁にしか過ぎないが。
「あれ、そういえば」
ゾルターンが何かに気付いたのか、ディオンを見やった。何だろう、とディオンが首を傾げると、「ルサージュ卿の得物は?」とゾルターンは訊ねた。
「ハルバードは目立つのでな、今回の旅では使っていない。剣で対応している」
「竜騎士なのに?」
不思議そうなゾルターンに、ディオンはテランスと顔を見合わせて笑った。成程、そういう見方もあるというわけか。
「それを言えば、テランスも竜騎士だ。……私のために得物を剣に替えたが」
ディオンがそう言うと、テランスが一気に笑みを潜めた。だが、それは本題ではないので、彼のささやかな怒気を無視してディオンは続けた。
「竜騎士であれど、否、だからこそと言うべきか? 戦で得物を選んでいる余裕などない。武器を失ってしまえば、大抵の場合は死に至る。そうならないためには……生きるためには、血肉に塗れた剣であれ、弦が緩んだ弓矢であれ、使えるものであれば使う。本当に何もなければ、己が身を」
「血生臭い話だが、要するになんでもこなすってことか」
「そういうことだ」
「自由自在に出し入れできるといいんだがな。……ま、それこそ魔法ってやつか」
話の区切りを見計らったのだろう、女主人がやって来て薄荷茶のポットに湯を注いだ。蜂蜜も特別にね、と笑って入れてくれた彼女に礼を言い、男達は注がれた茶を飲んだ。
<後略>
灰色の都だ、とストーンヒルの城壁を見上げ、テランスは思った。
やはりウォールードも国としての形を失っている。統治者は消え、アカシアと化した人民の多くもオリジンと共に消滅した。数少ない生き残った民はといえば、生まれ育った地にしがみついて祈りをひたすらに捧げる者と、安全と安寧を求めて都に避難してくる者に分かれているのだという。
しかし、王都ストーンヒルに辿り着いたからといって何があるわけでもない。上の不在で統制がとれなくなった軍隊くずれに脅された挙句に組み込まれるか、前身のヴェルダーマルク王国の残党に捕らわれるか、抵抗組織に連なるかといったふうに三分される。あるいは、それらに悉く利用されるか。そこに、自由はなかった。
間もなく雨を呼ぶだろう分厚い雲もまた、この都を濃い灰色に染め上げていた。
「以前、乗り込んだ際は……」
同じように城壁を見上げ、腕組みをしてディオンが言い淀んだ。以前。その言葉をテランスは口の中で繰り返す。
以前、というのはマザークリスタル・ドレイクスパインを破壊すべくクライヴ達がこの地に向かったときのことだ。ようようではあるが接岸できる「影の海岸」から陸路でストーンヒルを目指した彼らだったが、その旅路は困難を極めたらしい。襲い来るアカシア達を屠り、バルナバスとは死闘を演じた末にクライヴは「使命」とやらを押し付けられた。もっとも、それらのことは伝聞でしかないのだが、一方で残された者――ジル達は彼らを援護するためにミドと共にエンタープライズの帆先をストーンヒルに向けた。
ディオンもまた、その船に乗った。――半ば、無理矢理に。
『皆、そりゃびっくりしたさ。話はバイロンから聞いてたけど、え、まさかほんとに?って。おかげですっごく助かったけどね』
そのときのことを何も知らないテランスに、思い出を語るように話してくれたのはミドだった。
何処かから取り寄せたらしい部品をダンジョンまで運ぶのを手伝ったら、まあ世間話でもしてきなよ、と座らされた。彼女がわざとらしく咳払いをすると、年上の助手達は肩を竦めてダンジョンを出ていった。
誰も話さないだろうね、と人払いの後にミドは言った。話したくないかもしれないし、話すのを忘れてるだけかもしれない。あんたのディオンだけじゃない、クライヴも、ジョシュアも、ジルも、他の皆もそう。色々あって大変だったーってまとめて一括りにしてそのうちすっかり頭の隅っこに追いやるんだ。
猫のように目を細めて続ける彼女の言葉を、テランスはただ聞いた。
――それはそれで、アリなんだよ。本当のことは過去にしかないけど、そればかり見つめてもいられない。そんな余裕なんてない。望んでも望まなくても、未来は――明日はやってくる、太陽は昇る。たぶんね。望まないんだったら分からないけど、少しでも自分の未来がほしいって思うんなら、持ってる力は「前」に使わなきゃならない。少なくとも、ここの皆はそうやって生きてきた。だけど、いや、だからかな、本当は大切なことをぽろぽろ落っことしてるフシがある。
それじゃダメなんだ、とミド。
――なんにも変わらない。ううん、もっと悪い。「分かってるヤツ」しか進めない。「分からないヤツ」は「分かってるヤツ」に引きずられて、それでもなんとか前に進もうとするけど、いつか立ち止まってしまう。クリアできない。それを「分かってるヤツ」は分からない。……バイロン達、つまり風のおじさん達はなんでか分かってるようだけど、他はどうかな?
探るような視線を向けてきた彼女を、テランスは真正面から見据えた。彼女のあけすけな物言いとは裏腹に、その言葉は真実だった。そう、自分は「クリアできていない」。
――それでも。
『……「分からない側」が努力するのが必定でしょう』
『それ、本気で言ってる? なんでそんなムダなことするわけ?』
テランスの形ばかりの答を彼女は切り捨てた。
『あたしは父さんに自分が分からないこと、聞いたよ? 手紙もたくさん書いた。父さんは全部を教えてくれたわけじゃないだろうし、あたしだって全部聞けたわけじゃない。反発したり、逃げたりしたこともある。でも、父さんはあたしが「分からない」ことを理解してた。ああそうだったのかもなって気付いたのは最近だけどね。だから、「分からないヤツ」でも自分なりに道を切り拓けるんだって、そう思えたんだ』
『……』
黙したテランスに、ミドが笑いかける。
『あんたとあたしはたぶん同類。「分からない」立場。でも、それは全然悪いコトじゃないと思うよ。言葉なり態度なり、まあなんでも使ってさ、「分かってる」連中を引きずり倒しちまえ。こっち側に寄せろ』
そこまで言って、『あ』とミドはテランスを凝視した。唐突ではあるが彼女なりの励まし方に心持ちが明るくなったような気がしたテランスだったが、彼女の視線に妙な緊張感を覚えた。
『あー、いつも押し倒してはいるか?』
『ミド殿……』
覗き込むように此方を見上げて下世話なことを言い出したミドに、テランスは仰向いた。はあ、と溜息をついて呼吸を整え、まばたきを数度。それから、なんとか笑みをつくってミドと相対した。
『では、お聞きします。我が君は……ディオン様は、皆さんにどのようなご助力を?』
『お、やっと乗ってきたな。知りたい?』
ニシシ、とミドが笑う。その悪魔のような笑みに、ええ、とテランスは頷いた。
「『ばーんと跳んで、ぐるぐるーっと槍を振り回して残ってたアカシア達を一網打尽。撤退するときは皆が船に乗り込むまで最後まで踏み止まって、それでもって、びゅーんって跳び乗ってきた』だそうですが、合っていますか?」
「……テランス?」
予想する余地もなかったのだろう、自分の言葉を聞いたディオンの表情は豆鉄砲を食らってしまった鳩のような風情だった。初めて見たその表情はおそらく一生忘れられないものになる、とテランスは確信した。
――これまで随分と長いこと、傍に在ったが。
烏滸がましいことだが、彼のことをだいぶ知り尽くしている――なんなら、この現世で一番といってもよいだろう――自分だったが、それでもこうして「初めて」があるわけで、不思議かつ愉快でもあった。
名を呼び、どういった意味だと目線で訊いてきたディオンに、テランスは小首を傾げる。なんでしょう、とそうしてテランスが素知らぬ顔で訊き返すと、ディオンは視線をうろうろと彷徨わせた。
「いや、その、言葉選びが妙だと思ったのだが」
逡巡した後に、窺うように此方を見ながらディオンが言う。どうやら、ミドはディオンに何も言わなかったようだった。
テランスはにっこり笑った。種明かしをしてもよいだろう、とそう判断する。
「ミド殿が教えてくれました。ストーンヒルでの貴方のことを」
「……ミドが?」
ええ、とテランスは答え、ミドの口ぶりを真似して続けた。
「『テランスは知らないだろうから』と。そして、『お節介かもだけど、知っておいたほうがいい』とも言っていました」
「物語」の最後に改めてそう結んだミドを思い出す。確かに、彼女の言う通りだった。
「あの日のことを?」
「あの日を含めた、私が知らない日々の話です」
テランスはきっぱりと言った。
知らないのだ。話の流れで伝え聞くことばかりで、これまでは「あのとき、彼がどうしていたか」ということを積極的に聞きに行ったりはしなかった。無意識に忌避していたのかもしれない。
彼がどうしていたか。かの地――隠れ家で何を思い、誰と話していたか。翼を授けた経緯は。そして、その先の顛末は。
今、こうして目の前に彼がいる。それはとても大切な事実だが、偶然で得られたものではない。彼が望み、自分が願い、多くの者が力を尽くしてくれた、それ故に。そして、それらの尽力についても、聞きたいと思った。――否、ようやく聞けるようになったと思う。彼からも、彼以外の人々にも。
「私は知らないですから……貴方が『びゅーんって跳んだ』ときのことを』
「テランス」
テランスの言葉に、ディオンがほんの僅かに俯く。彼なりに思うものも多くあるのだろうが、その視線を放っておくことはテランスにはもはやできなかった。
いつぞやのように彼の肩に手を置き、此方を向かせる。軽くこわばったその身を本当は抱きしめたかったが、元敵国の往来ですることではない。それでも、と思い、彼が自ら視線を合わせてくるのを待った。
「お前が知らない私の話、か。……確かにそうだな」
ディオンは呟くと、顔を上げた。微笑んで頷く彼の姿にほっとした思いになり、テランスもまた笑んだ。
「だが、それは今このときではない」
「ええ」
雨の気配を含んだぬるい風が吹き抜ける。
城壁の隙間をこじ開けるようにつくられた歩行者用の城門を二人は見やった。人の出入りは多くはないが、疎らというわけでもない。当然、城門の両脇には抜かりなく衛兵が立っていて、行き交う人々を眼光鋭く見張っている。人波に紛れ込んで、とはいかないようだった。
「行くぞ」
外套のフードを被って先を行ったディオンに続き、テランスは隠しを探った。通行の許しを得るべく、城門の小窓越しに係官に通行手形――勿論、偽造のものだ――を見せる。係官は手形を一瞥すると、すぐにそれを返して寄越した。しかし、二人を簡単には通す気はないらしく、係官は手のひらを突き出した。
――何処も同じようなものだな。
まなざしでそう言ったディオンにまばたきで応じ、テランスは数枚の銀貨を係官の手に乗せた。ウォールードで造られたそれは、空と同じ鈍色をしている。
「通れ」
受け取った銀貨を数えると、係官は二人に顎をしゃくった。不審そうな様子を見せなかったことから察するに、テランスが渡した賄賂は「相場」だったらしい。
城門を潜って通りを少し歩くと、広場に出た。
さて、と呟き、テランスは首をぐるりと回してから背伸びをした。少し疲れましたね、などとディオンに話しかけながら周囲を素早く見渡す。そうだな、と返したディオンも同様の演技をした。
すると、広場の隅で話し込んでいた男女と目が合った。男は女に頷いてみせると、此方へ近寄ってくる。やあ、と右手を挙げて「再会」を演じる彼に、テランスとディオンも手を挙げて応じた。
「ご無礼を」
小声で囁いてから、男は笑みを深める。まずはディオンと手を打ち鳴らし、次いでテランスとも同じように手を打ち鳴らした。
「出迎え、痛み入る。……其方が来るとは、思わなかったが」
「本当は隊長も志願していたんですが、流石に二人とも空けるわけにはいかなかったので、僭越ながら私が」
礼を言ったディオンに、男は声を潜めて答える。そうして、大仰に「久しぶりだな!」と言って二人の肩をばんばんと力強く叩いた。
「ち、力加減を頼みます……コール殿」
「すみません。半分は演技で、半分は本心です」
男――「石の剣」の副隊長コールはテランスにそう言うと、二人を広場の隅へと促した。そこでは先程の女が待っていて、ほっとしたような顔つきで会釈をした。
「「種火」のトリュンメルと申します。名が長くて自分でも舌を噛むので、どうかメルとお呼びください」
そう名乗ったトリュンメルことメルに、二人は頷いた。それを見届けたコールが「ご案内します」と歩き出す。
コールもメルも武人とは思えないほど雰囲気に溶け込んでいた。相応に砕けているが、街全体が持つ陰鬱さに支配されているふうも感じさせる。見事なものだ、というディオンの呟きにテランスはまったく同感だった。
彼らはウォールードにおける二人の護衛役として「派遣」されてきた。特に、このストーンヒル近辺では随伴することになっている。
風の大陸では護衛はごく最小限に抑えた。――殆ど二人旅だったといってよい。だが、謎多きウォールードでは何が起こるか分からない。また、この地を陸路で旅をしたクライヴやジョシュア以上に、ディオン・ルサージュという存在は「敵国ザンブレクの象徴」として知られすぎている。生存も公然の秘密である今となっては、あまりに危険だと周囲は散々止めたが、ディオンはそれを聞かなかった。
なんとか説得してくれ、という視線をほうぼうから受けたテランスもまた、彼らの言葉を聞き流した。止められるものなら止めているし、そもそも、止めるつもりもなかった。ディオンからは当然のように真っ先に打ち明けられていたが故に。
「「蟹」には遭遇しましたか? 面倒な連中ですが、旨そうですよね」
勾配のある通りを進み、適当な世間話をコールが提供する。そのなかで出てきた妙な単語にディオンとテランスは「蟹?」「旨そう……?」と訊き返した。
蟹、とはあれだろうか。メガロクラブ種だろうか。
二人の戸惑いに応じたのはメルだった。
「はい。「お兄さん達」の故郷では食べませんか、「蟹」。茹でれば結構美味しいですよ」
弾力があって、少し塩気があって。毒を抜くのが難儀ですけど。語ったメルに続けてコールが「そうそう」と返す。
「もう少し南下すれば出くわすかもしれませんね。そのときはぜひ茹でたてを味わってください。専用のカトラリー、お渡ししますか?」
「……考えておこう」
もはや演技ではない雰囲気で畳み掛けてきたコールにディオンが苦笑する。だが、と少し考えてディオンは続けた。
「私はラプトルのほうが好みだな」
「ディ……いえ、旦那様……」
愉快な会話に乗ったディオンの返しを斜め後ろで聞きながら、テランスは浮いた心を鎮めるように溜息をついた。
§ §
次の日。
コールにもメルにも特に何も言われずに、ごく当たり前のように宿の同室を用意された二人は、同刻に目覚めた。いや、少しだけディオンのほうが早かっただろうか。
おはよう、とごく間近でディオンの掠れ声を聞き、テランスの意識は一気に浮上した。目を開けるのと同時に上半身をがばりと起こし、置かれた状況を把握するのに一拍を要した。ふふ、とどこか嬉しそうに笑う彼を見つめ、おはようございますと返事をして、異変がないことを確かめて――、そうしてテランスは自らの頭を抱えた。
「なんたる失態……」
主従の関係ではなくなったにせよ、自分にとってディオンはどこまでも「守るべき存在」だ。何度もその関係性はひっくり返ってしまったが、それだからこそこれからは守りたいと思っている。身も、心も。
それなのに、かつての敵国で呑気に寝坊するとは。
「まだそのようなことを言う」
呆れを含めた声色でディオンがわざとらしく溜息をつく。テランスとは正反対にゆっくりと身を起こした彼は、ふわ、と小さく欠伸をした。
「余程疲れていたのだろう? 私のぶんまで警戒を怠らずに気を張っていたのがほんの僅かに緩んだだけだ。特に何があったというわけでもなし……なさすぎたといっても過言では」
暗に「何もなかった」昨晩のことを指したディオンの言葉を、「当たり前です」とテランスはぴしゃりと封じた。
「仮にも此処はウォールード、貴方の存在そのものが元々から疎ましかった国です。警戒はどれほどしても足りません。ですから……ああ、もう、だから!」
説教じみた物言いが気に入らなかったのか、それらの言葉を無視して抱きついてきたディオンにテランスは声を荒げた。とはいえ、彼を無下に扱うなどということはできるわけもなく、また、そうしたいとも思わないのが真情だ。
――仕方ない。
テランスは自分自身にそう言い訳をし、まなざしで催促するディオンに口づけた。
雨は夜半には上がったらしい。未だ厚い雲の切れ間から覗く陽はやはり弱々しかったが、通りの石畳は乾いていた。
コールが先導を務め、続いたディオンの斜め後ろをテランスは歩く。メルは別の任務があるとのことで、この「散歩」には同行していない。
「念のため、なのですが」
街を案内するといったふうを装いながらコールはディオンに言った。外套の留め具を指して続ける。
「それは外しておいてください。何らかの情報が旧ウォールード正規軍に入っている可能性もあります」
「成程?」
コールの意図するところを理解したのだろう、ディオンが留め具を外した。
旅のさなか、この留め具は思ってもみなかった重要な役割を果たしてきた。オルタンス達の「なんとなく」の思いつきに、ハルポクラテスが自らの願いを込めた知恵を寄せ、クライヴが「信頼の証」として認めた留め具――ブローチ。それは、行く先々の「シドの協力者」達にディオンの為人を担保する証拠として度々扱われ、結果として彼は多くの知己を得ることができた。
しかし、此処ではその効果は期待できない。それどころか、真逆の意味合いで扱われるだろうことを考えると、コールの忠告はもっともだった。
「ありがとうございます。では、行きましょうか」
やはり勾配がある表通りを歩く。石造りの建物が通りの両脇に建ち並び、幾つかの店舗は既に開けているようだった。なんとなく看板を見上げたテランスだったが、その先にある峻厳な王城を認めた途端に自らの表情が険しくなるのを感じた。
主なき王城。将来、この国はどう変わっていくのだろうか。テランスは思う。亡き王の遺志――バルナバスからすればそんなものはどこにもないのだろうが――をでっち上げた末に継ぎ、誰かがその玉座に収まるのかもしれない。一方で、前身のヴェルダーマルク王国の残党組織が国権を奪い返すさまも容易に想像できた。
他方、地下に潜伏し、活動をしているという抵抗組織はどうだろうか。「情報が少ないのです」とメルは昨夜言っていたが、諜報員による調査書には組織の名前や概略、主張に活動内容、首謀者、構成員、推定される根城の場所が記されていた。
それによると、組織の名は「岩鼠」といった。首謀者はモスィという男で、その名は「ネズミ」という意味合いを持つ。当然、偽名でしょうねとコールは言った。
『密偵部隊の生き残りが中心になっている、と?』
読み終わった調査書をテランスに渡し、コールとメルにディオンが訊ねた。ええ、とその問いにメルが答える。
『隊長であったベネディクタ・ハーマンの死後、密偵部隊は再編されずにそのまま消失しました。当時、彼女に随行していた者達は全員死亡しましたが、他の地で任務にあたっていた者やウォールード国内で待機していた者も勿論いたのです。彼らの多くは口封じのために処分されましたが、自死を選ぶ者もいました。そうしたなかで辛くも逃げおおせた者達が中心となってつくられたのが岩鼠です』
彼らの主張はありきたりだった。「我らに自由を」。響きのよい言葉を掲げてウォールードやヴェルダーマルクに対抗しているようだが、混沌の世に在って具体的に何をどうしたいのかは伝わってこないのだ、とメルの横にいた諜報員が説明した。
ただ、と続けてコールが発言する。
『岩鼠は、隠密行動はやはりお手のものです。ウォールードにヴェルダーマルク、どちらも上層部が既に何人かやられています。放った「草」も有能で、双方の勢力の情報も岩鼠には筒抜けですね』
説明を聞き終え、ディオンが喉の奥で唸ったのをテランスは聞いた。
ウォールードの三勢力。ヴァリスゼア全体の混乱を収めるために風の大陸側が手を握るのは、どの勢力が最適解か。もしくは、静観を決め込んで三者が共倒れになるのを待つか。
ディオンはどう考えるのだろうか。最後の選択肢は選ばないだろう、とテランスは思った。共倒れを待っていれば、その前に灰の大陸全体が更地になってしまう。また、争乱の音が長く響き渡れば、風の大陸側にも悪影響が出かねない。そうなる前に、いずれかの勢力が政権を奪取してくれたほうが此方側としては都合がよかった。まっとうな思想の持ち主ならば、尚良いが。
木戸の隙間から入り込む風で蝋燭の火が揺れたのを合図としたか、ディオンが腕組みを解いた。そうして彼から告げられた提案に、その場にいた者は我が耳を疑ったのだが――。
「そう怖い顔をするな、テランス」
ちらりと此方を振り向いてそう言ってきたディオンの声は、どこか不満げだった。
「私達は気ままに「散歩」を楽しんでいるだけだ。それなのに、お前ときたら渋面ばかりで私に声もかけない」
コールの演技が移ったか、大袈裟に肩を竦めてディオンがテランスを見る。睨んでいるようにも見えるが、どこか愉快そうなのは間違いようがない。此方がどう出るか、面白がって待っているのだろう。
「……旦那様」
だが。
ディオン、と言いかけて止めたテランスを、今度ははっきりとディオンは睨んだ。
「昨日も言っていたな。その呼び方はなしだ」
「御名を此処でお呼びするわけにはいかないでしょう? 「我が君」も同様に難しい」
テランスがそう返すと、ディオンは「そうではなく」とますます機嫌を降下させていく。
「お前は、時々、本当に鈍いな。声もかけず、名も呼ばず、口調は前と変わらない」
ついに足を止め、ディオンがテランスに向き直った。「いつもの角度」で見上げてくるのかとテランスは思ったが、ディオンはそうはしなかった。常より二歩を詰め、殆ど吐息が触れるような距離で此方を見据える。
「……時と場所と場合によります」
「それだ。うまく利用しろ」
答に窮し、ようやくそれだけを返したテランスにディオンが言い捨てる。そうして再び前を向くと、生暖かい目で様子を眺めていたコールよりも先に歩き出してしまった。
「ちょっと待って、ディオ……ディー!」
――まったく、自分達は何をやっているのだか。
そんなふうにも思うが、今朝のやり取りと同じように彼の感情の発露に触れるのは、純粋に嬉しかった。
急いでディオンに近寄り、雑に振られた手をとる。テランスがそのまま手指を絡めてしまうと、少し意外そうな顔をしてディオンは恋人を見上げた。
「……ここまでやれとは言っていないが」
「確かに言われてないね。けれど、君がああも言うのだし、此処はある意味では僕達のことは誰も知らない。そう思えば、これくらいは」
指先に軽く力を込め、テランスはディオンの頬に口づけた。
一瞬遅れて「テランス!」と小声で咎めてきた彼に笑んでみせ、コールに声をかける。
「お待たせしました。そろそろ行きましょうか」
テランスの台詞に、コールは苦笑いで返した。
「本音を言えば、此処からはお二人だけでどうぞって感じで、私はすみやかに離れたいですね。護衛ですから、そんなことはできませんが」
くれぐれもお気をつけくださいね、と釘を刺してから歩き出したコールに続いて二人も歩き出す。
「有事の際は手を振り解け」
「手はね」
繋いだ手のまま、さらに先へと進む。通りすがった幾人かは此方を振り向いたが、それだけだった。肯定されるかどうかは不明だが、罵るような風潮はないことに内心でテランスは安堵した。
何気ない風情を装って道を選ぶ。王城へ続く道から逸れ、やがて三人は大広場に出た。
「この先に、あれが?」
「ああ」
固く閉ざされた門の前に立ち、ディオンがテランスの問いに答えた。峻峰の如く聳えていたというドレイクスパインは失われ、見上げてみても空があるばかりだった。
「正確にはもうひとつ先の門にそれはあった。……だが、クライヴ達はアカシアの集団にてこずっていて危うかった」
「そこに『ばーんと跳んで、ぐるぐるーっと槍を振り回した』わけですか」
ついぞ抜けぬ口調の癖は放っておき、テランスはミドの言葉を繰り返した。
そうだな、とディオンは少し笑む。
「間に合ってよかった、と思ったな。だが……」
横目で岸壁を見やったディオンの視線をテランスは追った。
事故でも起きたのか、岸壁は見事に破壊されていた。数箇所には修復を試みた形跡があるが、殆ど放置状態の有様はいったいどうしたことだろうか。やはり内乱状態の世にあっては、こうしたところに割く余力はないのかもしれないが。
「派手に壊れていますね?」
コールも不思議に思ったらしい。何らかの天災かと彼は思ったようだったが、「その割に街全体は整っているな」と首を捻った。
「ミドの仕業だ」
呟いたのはディオンだった。え、と固まったテランスとコールの二人に、彼は続ける。
「じゃじゃ馬殿は殆ど減速もせずに船を突っ込ませた。ミスリル機関というのだったか、その推進力の反動で岸壁を破壊してしまったらしい。……そのため、私やジル殿といった面々はともかく、グツを下船させるのには少なからずの苦労があったが」
「……それで、『ばーんと跳んだ』と」
「窮地を救うにはそのほうが手っ取り早かったからな」
頷いたディオンを見て、テランスはようやく納得した思いになった。ミドの言葉をすべて疑っていたわけではないが、随分と派手な立ち回りをしたのだなとは思っていたのだ。
「成程……それは凄い」
色々と想像したのだろう、自分と同じように唖然とした様子のコールに、ディオンは「凄いのは船だ」とそっけなく返した。
「そもそも、あの速度で突っ込めば、止まれずに激突したはずだ。それなのに、岸壁を破壊した「だけ」で、ミドの舵取りに従って船は急停止した。あのように自在に操れる船はそうはないだろう。強いていえば――」
「ディオン」
続けようとしたディオンをテランスは制した。未だ繋いだままだった手を解き、彼を自分の背に隠す。目配せをすると、コールがテランスよりも一歩前に出た。
此方の動きを感じ取ったか、殺気が急激に膨らんだ。広場へと入り込む幾筋かの通りのうちの二方向から武装した集団が走ってくる。どちらも「散歩」のはじめから感じ取っていた気配だ。どうやら、「餌」に食いつく算段を立てたらしい。
「ほう?」
背後で愉快げな声を上げたディオンに、テランスは口の端を上げた。
「ウォールードとヴェルダーマルクは結託したか」
「そのようですね」
ブラックソーンの剣を鞘から抜くと、テランスは刀身を軽く振った。ヒュン、と鋭い音の後に剣が分離する。
「いけますか」
現れた短槍を後ろ手でディオンに渡す。確認の響きでテランスが問うと、「無論」と短い返事があった。
「――突破します!」
コールの合図と共に三人は走り出した。はじめに襲いかかってきたのはウォールードの国章を付けた集団だった。それぞれの手には多様な武器が握られていたが、槍を持つ者はいない。とすれば、上空からの危害の可能性は低いだろう。砲筒使いがいないのも幸いだった。
そうとなれば。
その場に居合わせてしまった民達の悲鳴を聞き流し、うまく逃げてくれとテランスは頭の片隅で祈った。片手斧を振りかざしてきた覆面兵の一撃を剣で弾き飛ばし、よろめいた隙に腹を蹴ってその場に転がす。太腿を狙って剣を振るうと、血肉を断ち切る鈍い衝撃が手に伝わった。潰れた絶叫に背を向け、また走る。
行く手を阻むウォールードの兵達が次々と襲い来る。ぶつぶつと呪詛のような言葉を吐きながら向かってくる彼らは、消え去ったはずのアカシアのようにも思えた。
双剣士の肩を剣で砕き、ディオンに向かって投げられたと思しき短刀を振り向きざまに打ち払う。そうして全員が幾人とも切り結んでいる間に、ヴェルダーマルクが乱入してきた。まっすぐに此方に向かってくる剣士達とは別に、弓矢を持った者達が広場を囲む建物へと走っていく。高台から狙うつもりだろう。
テランス、と背中合わせで立ったディオンが息も切らさずに名を呼ぶ。此処に、とテランスが応じると、ディオンは「跳ぶ」とだけ告げた。
「ご武運を」
「ああ!」
背後のディオンが高く跳躍すると同時に、テランスはその場に落ちていた石塊を拾った。複数の兵に囲まれて難儀しているコールの退路を確保すべく、手にした石を狙い定めて敵に勢いよく投げる。投石を見事に頭にくらって昏倒した敵をコールが踏みつけ、テランスのほうへと走り寄った。
「コール殿、伏せろ!」
視界の端で感じた煌めきと空の高みから聞こえてきた急降下音に、テランスはコールに向かって叫んだ。追い縋るヴェルダーマルクの脇腹を薙ぎ、自らもその場に伏せる。本当は顔を上げてディオンが繰り出す技を見届けたかったが、命は惜しかった。
コールが瞬時に伏せたのと同時に、眩い光と衝撃波が襲った。轟音が鳴り響き、複数の断末魔がそれに続く。やがて訪れた奇妙な静寂にテランス達は顔を上げたが、腰が抜けたのか、ウォールードもヴェルダーマルクも、多くの兵が仲良く倒れ込んでいた。
ディオンの姿を探すと、壊れた屋根の上に彼は立っていた。瀕死の弓兵をそのままにして屋根を飛び降りた彼のもとに駆け寄る。
「ご無事ですか」
「それは私の台詞だ。退くぞ」
高揚の笑みを浮かべてそう指示したディオンに、テランスは頷いた。否、頷きかけた。
その、刹那。
「バハムート!」
耳に届いた若い声に、テランスは声の主を探した。腰を抜かして動けなくなっていたはずのヴェルダーマルク兵が一声叫び、何かを投げつける。まずい、と判じるよりも先にテランスはディオンの前に躍り出たが、敵兵が投げた「何か」を退けることまではできなかった。
左肩に鋭い痛みが走る。そういったお約束事は要らないのに、と思いながら歯を食いしばったテランスの背後、ディオンが「テランス!」と怒鳴るように叫んだ。
「私は大丈夫です、問題ありません……ッ!」
口早にそう返し、右手で剣を握ろうとしたテランスだったが、剣は手から離れ落ちてしまった。全身から力が抜けていく。片膝をつき、不規則な呼吸のままに石畳を睨む。視界が歪んだ。
おかしい。どうして。傷を負ったのは左肩のはずだ。
「コール、テランスを!」
異変を察したディオンの命令を受け、コールがテランスを庇う。そんなふうに命じたディオンも、命令に従ったコールも許せなくて、テランスはもがいた。
――このままでは、また。また、繰り返す。
「バハムート!」
呪いの叫びが撓んで聞こえる。次いで、誰かが舌打ちをする音。そして、風切り音と絶叫。
からん、と何かが落ちる音。
「ルサージュ卿、テランス殿は私が! 走って!」
コールの怒鳴り声が耳に遠い。駄目だ、それでは。左肩から流れ込む得体のしれない冷ややかな感覚に気を取られながら、テランスはコールを突き飛ばした。
「テランス!」
目を見開いて此方を凝視したディオンに、テランスは笑ってみせた。
「大丈夫、です。だから」
「走れるか」
「ええ」
嘘は許さないというような彼のまなざしに嘘で返し、辺りを見回す。広場へと入る通りは幾筋もあるのに、退路となりそうな道はひとつしかなかった。
「引きずってでも連れて行く。離さん」
「勿論」
ちかちか、と視界が明暗に眩む。落とした剣を両手で拾い、無理矢理に鞘へと戻した。
倒れるわけにはいかない。彼を守り抜くためには、こんなところで。
――共に歩むと決めた。二度と離れないと誓った。だから。
「走れ!」
ディオンの掛け声で駆け出す。コールの後にテランス、そして最後尾はディオンに変わった。それすらも忌々しくて、テランスは自分を呪った。そうこうする間にも体が冷え込んでいくのを感じる。――何かが流れ込み、何かが流れ出ていく感覚。
広場を出、通りに入る。変事を察知した住民達によって建物は軒並み閉ざされており、逃げ込む余地はなさそうだった。
左右を見やり、コールが手を挙げて先へと合図する。「休まないで!」と彼が怒鳴るのを遮り、まったくの別方向から「おい!」と声が上がった。
「こっちへ来い」
「皆さん! 急いで!」
知らない男の声と、メルの声。切羽詰まったメルの声とは真逆に、男の声は荒事に慣れているような声色だった。
「そいつは俺が運ぶ」
そうして、また別の声。のっそりとした声に、それがいい、と先の男が笑う。
瞬間、体が宙に浮いたような気がした。テランス、と自分を案じて名を呼ぶディオンの声も遠い。
音が膨れる。目がぼやけて見えない。頭が重くて、状況が掴めない。
「兄さん達もついてきな。悪いようにはしない」
「……もしや」
どこかのんびりとした風情の声に、ディオンの声が被る。唸り声を上げた彼に笑み含みで男が言うのを、テランスはどうにか聞き止めた。
「そうさ、ディオン・ルサージュ。俺はモスィ。――「岩鼠の根城」へご案内しよう」
<後略>